エラベノベル堂

ライバルは今夜、隣に座る

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2章 / 全10

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「……もう少しだけ休むか」 健太がそう言ったのは、時計が十時を回ったころだった。縫い糸を切る音が途切れ、アトリエの奥にあった緊張がふっと緩む。遥香は肩を回し、机に突っ伏しそうになるのをこらえた。 「休むって、お前が言うなんて珍しい」 「お前がこのままだと、明日どころか今夜で倒れる」 「失礼」 そう返したものの、遥香も反論しきれなかった。指先は細かく震え、まぶたの奥が重い。健太も同じらしく、いつもより無駄口が少ない。その沈黙を埋めるように、休憩スペースの小さな冷蔵庫からグラスが二つ出された。 「在庫整理で余ったやつ。少しだけならいいだろ」 「ワイン?」 「少量なら。気分転換くらいにはなる」 遥香は警戒しながらも、ひと口だけ口に含んだ。舌先に残る渋みが、張り詰めた神経をわずかにほぐしていく。 「……意外と、悪くない」 「だろ」 健太も同じように飲み、壁にもたれた。仕事の話をしていないだけで、こんなに空気が違うのかと遥香は少し戸惑う。 「ねえ」 「なんだ」 「健太って、なんでそんなに必死なの」 軽く言ったつもりだったのに、相手の目が一瞬だけ止まる。 「お前こそ」 「私は……」 言いかけて、遥香は視線を落とした。グラスの縁に映る蛍光灯が、白く揺れている。昇格。結果。評価。ずっと追いかけてきたものが、すぐそこまで来ているのに、掴める手応えがない。 「遅れてるって、思われたくないだけ」 「誰に」 「……みんなに」 その一言が、思った以上に静かだった。健太は何も言わず、グラスを傾ける。遥香は続けるべきか迷って、それでも口を開いた。 「負けたくないの。ここで止まったら、ずっと追いつけない気がする」 「追いつけないって」 健太は小さく息を吐いた。 「俺だって同じだよ。お前に抜かれたくない。気づいたら置いていかれるのが、一番嫌だ」 遥香は思わず顔を上げた。そこにいたのは、いつもの刺々しいライバルではなく、珍しく言葉を選んでいる同僚だった。 「……そんなこと思ってたの」 「思ってる。ずっとな」 少しだけ笑ったような声だった。遥香も、つられて肩の力が抜ける。 「じゃあ、私だけ焦ってたわけじゃないんだ」 「そういうことになる」 「なんか、ずるい」 「何が」 「そうやって普通の顔で本音言うの」 健太は苦笑して、空になったグラスを見下ろした。 「お前だって似たようなもんだろ。強がってるくせに、言うときは言う」 「強がってなんか」 「してる」 言い返そうとした遥香は、結局黙った。否定できない。ワインの熱がほんの少しだけ頬に差して、さっきまでの張りつめた気持ちが、名前のない感情に変わっていく。 「なあ、遥香」 「なに」 「今夜くらい、少しだけ正直になってもいいだろ」 その声はいつもより低く、妙に落ち着いていた。遥香は返事の代わりに、グラスの中で揺れる残りを見つめる。仕事以外の話なんて、したくなかったはずなのに。今はむしろ、この沈黙のまま終わるほうが惜しい気がした。

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