エラベノベル堂

ライバルは今夜、隣に座る

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3章 / 全10

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「今夜くらい、少しだけ正直になってもいいだろ」 その声は、ワインの熱よりも静かに胸へ落ちた。遥香はグラスの縁を指でなぞり、すぐには返せないまま、視線だけを机の上へ逃がす。休憩スペースの薄い明かりの下で、さっきまで刺々しかった空気が、少しだけ形を失っていた。 「……正直って、なに」 「知らない。お前が決めろ」 「ずるい」 「お互いさまだろ」 健太が肩をすくめる。その何気ない仕草に、遥香は思わず小さく笑いかけて、すぐに息を止めた。笑う余裕なんて、今夜の自分にはないと思っていたのに。 それでも言葉は、抑えようとするほど漏れてくる。 「私、たぶん……一人じゃなかったら、もう少しうまくやれた気がする」 ぽつり、と落ちた声は、自分で思っていたより弱かった。言った瞬間、遥香はしまったと思う。けれど取り消す前に、健太の反応が先に来た。 「……っ」 彼はグラスを持つ手を止め、まるで何かに目を奪われたみたいに瞬きを繰り返した。次の瞬間、健太の視界の端で、淡い色がふっと揺れた。 青い。 そう思ったのは、理屈じゃなかった。遥香の言葉を聞いた途端、彼女の周囲に漂う輪郭のようなものが、確かに色を持って見えたのだ。 「健太?」 呼ばれても、すぐに返事ができない。青は、張りつめた意地の色に見えた。けれどその下に、灰色がある。乾いた布みたいに薄く重く、触れれば崩れそうな色だ。 「お前……」 喉が詰まる。遥香は訝しげに眉を寄せたが、健太の視線が自分の顔から外れないことに気づいて、少しだけ身構えた。 さらに、色が揺れた。灰色の奥で、赤が小さく脈打つ。熱を隠しているのに、隠し切れていないみたいな赤だ。 「なんだよ、その顔」 「いや……」 言えない。見えている、などと言えるはずがない。 だが健太には、遥香がただ強いだけの女に見えていなかった。青は競争心、灰色は誰にも見せなかった孤独、赤は、それでも前へ進もうとする執念。その全部が、いま彼の目の前で揺れている。 「お前、そんな顔してたのか」 「は?」 遥香は怪訝そうに身を乗り出す。けれど健太は答えを探せず、ただ彼女を見つめた。ずっと、言い負かすことばかり考えていた。その裏で、こんなにも一人で踏ん張っていたなんて知らなかった。 「……悪い」 「何が」 「いや、別に」 曖昧に濁した声に、遥香はますます不満げな顔をする。それでも、健太の様子がいつもと違うことだけは分かっていた。怒っているのでも、からかっているのでもない。ひどく戸惑っている。 健太はゆっくりと息を吐いた。見えてしまった色は、消えない。むしろ、彼女の言葉に合わせて、静かに輪郭を変え続けている。 一人じゃなかったら。 その一言の重さが、青と灰色を揺らし、赤をさらに熱くした。健太はようやく気づく。遥香はただ負けたくて強がっているんじゃない。誰にも見えない場所で、ずっと一人で立っていたのだ。 「遥香」 今度は、名前を呼ぶ声が少しだけ柔らかかった。 「……なんだよ」 「いや。今は、黙っとく」 「意味わかんない」 そう言いながらも、遥香の声はさっきより硬くない。健太はそのことに気づいて、また胸の奥がざわつくのを感じた。色はまだ見えている。けれどそれは、もうただの驚きじゃない。 知ってしまったからだ。彼女の孤独も、負けたくない強さも、その奥にある熱も。 休憩スペースの静けさの中で、二人はしばらく何も言わなかった。グラスの底に残ったわずかな赤が、蛍光灯を受けて淡く揺れていた。

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