膝に刺さるような痛みを抱えたまま、陽菜は診察室のドアの前で一度だけ息を整えた。スポーツ整形外科外来は思ったより静かで、消毒液の匂いがやけに冷たく鼻に残る。大会前の練習で無理をした結果が、いま自分の脚に重く居座っている。走れない苛立ちを押し込めて中に入ると、白衣の男がカルテから顔を上げた。宗介と名札にある。若い。けれど、その目は驚くほど落ち着いていた。 「陽菜さんですね。膝の痛み、いつからですか」 「質問、そこから?」 思わず刺々しく返してしまう。宗介は表情を崩さないまま、 「必要な順番です」 とだけ言った。淡々とした声が、余計に腹立たしい。けれど、こちらの苛立ちを気にした様子もなく、彼は痛む場所を確認し、動きの範囲を確かめるためにいくつかの指示を出した。触れ方は最小限で、手つきは丁寧なのに、どこか距離がある。まるで壊れ物に触れる前の人みたいだ、と陽菜は思った。 「ここで止めてください」 「……うん」 膝を少し曲げただけで、鋭い痛みが走る。顔をしかめた陽菜を見ても、宗介は慌てない。触診も長引かせず、必要なところだけを確認すると、短く息をついた。 「半月板の損傷が疑われます。画像を見て、今後の方針を立てましょう」 「そんな、あっさり」 「曖昧なことは言いません」 無表情なままの返答に、胸の奥がじりっと熱くなる。励ますでもなく、気遣うでもなく、ただ事実だけを並べる。陽菜はこの病院に来たことを少し後悔した。陸上部の仲間なら、もっと悔しがって、もっと大げさに心配してくれただろう。なのに目の前の医者は、まるで感情の置き場を持っていない。 「走れないかもしれないってこと?」 「今は断定しません。ですが、無理を続けるのは避けてください。再来週、もう一度状態を見ます。その間にリハビリの計画を組みます」 「再来週って、そんな先?」 「早すぎても意味がありません」 陽菜は唇を噛んだ。納得できない。けれど、痛みを抱えたまま飛び出すほど子どもでもない。宗介は書類に何かを書き込み、最後に淡々と顔を上げた。 「不安なら、疑問は次回まとめてください」 「別に、不安じゃないし」 即座に返した声が少しだけ震えたのを、彼は見逃したのか、見逃したふりをしたのか。宗介はそれ以上踏み込まず、診察はそこで終わった。立ち上がる陽菜の膝に、また鈍い痛みが走る。くそ、と心の中で吐き捨てる。だがドアに手をかけた瞬間、背中に落ちてきた宗介の声は、思ったより静かだった。 「通院は、続けてください」 その一言だけが、妙に逃げ場のない重さを持っていた。陽菜は振り返らず、短く返す。 「……わかった。行けばいいんでしょ」 冷たく言い返したはずなのに、胸の奥には、説明のつかない棘のような感覚が残っていた。
共感覚クリニック
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