エラベノベル堂

共感覚クリニック

全年齢

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10章 / 全10

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朝の空気はまだ少しだけ冷たくて、トラックの赤い地面が薄い光を受けて静かに鈍っていた。陽菜はスタートラインに足を置き、膝を軽く曲げる。痛みが来る、と身構えた瞬間、思ったより何も返ってこなかった。代わりにあるのは、身体の奥がふっと軽くなる感覚だった。 「いけますか」 少し離れた場所で、宗介が腕を組んで立っている。今日は診療の白衣ではなく、ただの支援者みたいな顔だった。そう見えることが、陽菜には少しだけくすぐったい。 「いけるに決まってるでしょ」 「無理はしないでください」 「それ、先生のほうが似合う台詞」 宗介はわずかに目を細めた。笑った、と言うほどではない。でも、張り詰めていたものが少しほどけたのが分かる。 「始めます」 「うん」 返事をした瞬間、陽菜は地面を蹴った。 最初の一歩が、怖くない。膝の奥にあった嫌な重さはなく、代わりに脚全体が素直に前へ出ていく。風が頬を撫で、心臓が跳ねる。宗介の気配は遠くにあるのに、不思議と同期だけは穏やかなままだった。焦りも痛みも、押しつけるみたいな濁りはない。ただ、見守られているという確かな感覚が背中を押す。 「……軽い」 陽菜は息の合間にこぼした。 自分でも信じられない。走るたびに怖かった膝が、今日はちゃんと前を向いてくれる。トラックのカーブを回るごとに、身体が戻ってくるのが分かった。 その背中を、宗介は黙って追っていた。診察室では見せなかった表情で、ほんの少しだけ眉を下げている。弱さを隠すのではなく、認めた人間の顔だった。 陽菜は最後の直線に入る。 「宗介!」 呼ぶと、彼ははっと顔を上げた。 「見てて!」 それだけで十分だった。脚が地面を打ち、胸の奥まで熱が上がる。ゴールのテープを切るようにラインへ飛び込んだ瞬間、陽菜は膝に力が残っているのを確かめて、思わず笑った。 振り返ると、宗介がそこにいた。いつもの硬い輪郭はまだ残っているのに、その奥に浮かんでいるのは、どうしようもない安堵だった。 「……よかった」 声はほとんど風に溶けた。それでも陽菜にははっきり届く。 宗介は初めて、何かを守り切った人の顔をしていた。陽菜は膝に手を当て、少しだけ息を整える。治療が終わる。けれど終わるのは別れじゃない。 トラックの向こうで揺れる朝の光の中、二人はまだ同じ方向を見ていた。

検閲済みプロット

大学陸上部の学生・陽菜は半月板損傷の治療のため、スポーツ整形外科の新米医師・宗介のもとへ通うことになる。完璧で無表情な彼の診察は丁寧だが冷たく、触れられるのは最小限。ある日リハビリ中のマッサージで誤って手が滑り、長く肌が触れた瞬間、陽菜の身体がひんやりと歪む——宗介が今感じている痛みを自分が感じるようになったのだ。単なる身体的な痛みだけでなく、彼が抱える深い疲労や孤独まで共感覚として伝わってくる。接触を重ねるうちに彼の隠された過去が明かされていく。ある夜、陽菜が酔って宗介の腕にしがみついた瞬間、両者の感覚が完全に同期し、互いの身体反応が可視化されるほど強い結びつきが生まれる。診療室という非日常空間で交錯する五感と本音を描くサスペンス官能ラノベ。

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