エラベノベル堂

共感覚クリニック

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9章 / 全10

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診察室の空気は、夕方になるほど静かだった。窓の外で沈みかけた光が白いカーテンに薄く滲み、薬品の匂いに混じって、かすかな疲労の気配が漂っている。陽菜は椅子に座ったまま、向かいに立つ宗介を見上げた。最終チェック、と言われて来たはずなのに、いつもより彼の白衣が少し重たく見える。 「膝、どうですか」 「それ、先生の顔より先に聞く?」 「大事なので」 淡々と返す声は、いつも通り整っている。けれど陽菜には分かった。宗介は無理に口角を上げている。笑っているふりだけを、ぎりぎりのところで続けている。 「……先生、今日はへん」 「問題ありません」 「ある。あるっていうか、かなり」 宗介の指がカルテの端を押さえたまま止まる。その沈黙が、答えだった。陽菜は胸の奥でざわりと揺れるものを感じる。触れなくても伝わってくる。彼の膝の奥に残る鈍い痛みではない。もっと深い、限界を越える直前の消耗だ。 「無理して笑うの、やめなよ」 「笑っていません」 「嘘。今も」 宗介は視線を落とした。反論しない代わりに、息だけを短く吐く。その一瞬で、陽菜には分かってしまう。彼は今、自分の疲弊を隠しながら、治療の区切りを口にしようとしている。 「陽菜さん」 名前を呼ぶ声は、低くて静かだった。なのに、どこか別れの言葉に似ている。 「ここから先は、俺があなたを診るのを……やめたほうがいいのかもしれません」 言った瞬間、宗介の肩がわずかに固まった。陽菜の中に、鋭い冷えが落ちる。やっぱり、とすぐに思った。この人はいつだって、自分が傷つく前に扉を閉めようとする。 「それ、逃げでしょ」 「違います」 「違わない」 陽菜は椅子の縁を握りしめた。 「私を守るためって顔してるけど、本当は先生が壊れたくないだけじゃん」 宗介の目が揺れた。初めて、真正面からぶつかった感覚がした。彼は言い返さない。ただ、言葉にならない何かを飲み込んでいる。 「……守るべきだと思ったんです」 「守るって、切り捨てることじゃない」 「それでも」 「それでもじゃない」 陽菜は立ち上がりかけて、膝に走る違和感をこらえた。痛い。けれど、今ここで引いたら、全部がまた曖昧になる。 「私だって、先生が限界なの分かる。分かるから腹立つの。勝手に全部終わったことにしないで」 宗介は黙ったまま、少しだけ目を閉じた。次に開いた瞳には、逃げ場のない疲れと、それでも目を逸らしたくないという意志があった。 「……切り離すべきだと、思っていました」 「思ってた、じゃなくて?」 「あなたに、これ以上背負わせたくなかった」 その一言で、陽菜の胸の奥がきゅっと鳴る。守られているのではない。彼は自分の弱さごと、すべてを独りで抱え込もうとしていた。 「私、背負わせてほしくないとは言ってない」 「陽菜さん」 「必要なんだよ、先生」 言った瞬間、室内の空気が止まった。宗介の喉がかすかに動く。陽菜もまた、自分の言葉に驚く。必要。その一語が、思っていた以上に本音だった。 宗介はようやく椅子の向こう側へ視線を戻した。その目には、拒絶ではなく、諦めにも似た覚悟があった。 「……俺もです」 低い声だった。 「切り離せない。あなたを診ることも、あなたに触れたときに感じるものも」 陽菜は息を呑む。初めて、真正面から返された。 「私も、先生がいないと嫌」 言ってしまってから、頬が熱くなる。それでも止まらない。 「治療だけじゃない。あの冷たい顔の裏も、無理してるところも、全部見たい。だから逃げるなら、今じゃない」 宗介はしばらく動かなかった。やがて、抑えていた息をゆっくり吐き出す。その音が、やけに人間くさく聞こえた。 「……今日は、これで終わります」 「うん」 「ですが」 宗介は陽菜を見た。 「切り離す決断は、やめます」 その言葉に、陽菜の胸の奥で何かが静かにほどけた。まだ終わっていない。けれど、もう一方的に守られるだけの関係ではない。向かい合って、ぶつかって、それでも必要だと認めた事実だけが、確かに残っていた。

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