忘れ物に気づいたのは、自宅に戻ってすぐだった。バッグの中にスポーツドリンクが入っていない。陽菜はため息をつき、夜道を引き返した。医院までは徒歩十分。診療時間はとっくに終わっているが、受付の鍵はかかっていなかった。 「すみません……」 自動ドアが開き、薄暗い待合室に足を踏み入れる。その瞬間、重苦しい疲労感が肩にのしかかってきた。 「っ……」 膝から力が抜けそうになる。これは自分の感覚ではない。感覚のリンクを通じて流れ込んでくる、宗介の疲れだ。待合室の長椅子に、人影があった。 「先生?」 宗介が顔を上げる。眼鏡のない顔は、夜の闇の中でどこか頼りなく見えた。 「陽菜さん……どうしてここに」 「忘れ物を。先生こそ、こんな時間に」 「少し、休んでいただけです」 彼は曖昧に答え、再び視線を下げた。その肩が限界まで張り詰め、心なしか背中が丸まっている。陽菜は彼の隣に座った。 「先生の疲れ、すごく重いです。体が鉛みたい」 「……感覚が、共有されているからでしょう」 宗介は淡々と言ったが、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。 「一日中、患者の話を聞いて、診て、治して。誰にも弱音を吐けないんでしょう」 陽菜の言葉に、彼はわずかに目を伏せた。 「医師が弱音を吐いてどうします」 「先生だって人間じゃないですか」 彼女は無意識に、彼の肩に頭を預けていた。触れた瞬間、感覚のリンクが強まる。宗介の全身を包む疲労、そしてその奥にある温かいもの。守りたい、誰かを、何かを。そう願うのに、誰にも頼れない孤独。 「先生、少し休んでください。私が支えますから」 「……なぜ、そこまで」 「わからないです。でも、先生のこと、放っておけない」 沈黙が降りる。夜の待合室で、二人の呼吸が重なる。感覚のリンクを通じて、宗介の緊張がゆっくりと解けていくのがわかった。彼の腕が、ためらいがちに陽菜の肩を引き寄せる。 「……すみません」 「いいえ」 重なり合った体温が、互いの孤独を埋めていく。言葉はもう不要だった。
共感覚クリニック
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