「ねえ、今の、もう一回やってみない?」 明日香が鍵盤の上で指を止めた。夕方の練習室は、窓の外だけが少し赤くて、部屋の中は譜面台と椅子の影が長く伸びている。さっきまで四人で合わせていたはずなのに、最後の小節だけがどうしても固かった。 晴は弓を握り直したまま、眉を寄せる。 「どこだ。テンポは合ってたはずだろ」 「合ってたよ?」 と颯真がベースの肩を叩く。 「でも、なんか全員、息が詰まってる感じした」 湊介は譜面を見下ろし、控えめに言った。 「音は正しいんです。でも、押し込んでるというか……」 明日香は首をかしげたまま、ふっと笑う。 「じゃあ、力を抜いて。難しく考えないで、私が最初の音を置くから、あとは勝手に来てくれたらいいよ」 「勝手に、って」 晴が言いかける。 「大丈夫。たぶん、どうにかなる」 その言い方が妙に軽くて、三人は一瞬だけ目を見合わせた。技術ならある。拍も外していない。なのに、明日香がさらりと鍵を下ろすだけで、こちらの肩に入っていた余計な力が見透かされる気がした。 明日香が、たった一音を落とす。 澄んだ音だった。高すぎず、低すぎず、部屋の空気にすっと溶けて、それでいて輪郭だけははっきり残る。晴の弓先がその音に引かれるように動き、颯真の右手が少し遅れてうなずき、湊介の内声が静かに橋をかけた。 最初は、ほんの少しだった。 たった一拍、呼吸が揃っただけ。 けれど次の瞬間、さっきまで硬かった音の角が、不思議なくらい自然にほどけた。 「……今の」 颯真が目を丸くする。 「なんだ、今の」 晴も思わず言った。 湊介は返事の代わりに、もう一度弓を置き直す。今度は譜面の上の音符が、ただの記号じゃなく見えた。 明日香は何事もなかったみたいに肩を揺らす。 「ほら、できるじゃん」 「いや、できるっていうか」 晴は言葉を探して、結局飲み込んだ。 合わないと思っていたわけじゃない。むしろ四人とも、互いの腕前は認めていた。だからこそ、ずっと気になっていた。音は出ているのに、何かが噛み合わない。その正体が、今だけ少し見えた気がした。自分たちの音は、上手く弾こうとするほど固くなる。 明日香の横顔は、あまりにも自然体だった。狙っているふうでも、導いてやろうというふうでもない。ただ、そこにいて、音を置く。その軽さに引っ張られるみたいに、三人はもう一度、今度は肩の力を抜いて入り直す。 晴の旋律が前へ出すぎそうになると、颯真が地面を支える。湊介の内声がそれを受けて、少しだけ色を変える。明日香はその流れを邪魔せず、時々、ごく短い音で背中を押した。 一度、二度、三度。 気づけば、最後まで通せていた。 終わったあと、誰もすぐには喋らなかった。息の切れ方が、さっきまでと違う。達成感というより、ようやく扉の蝶番が見つかったみたいな、妙な手応えだけが残っていた。 「……今のは、ちょっと悔しいな」 颯真が笑う。 「何がだよ」 晴が返す。 「明日香が自然すぎる。こっちが意地張ってたみたいじゃん」 「張ってたでしょ」 湊介が小さく言って、少しだけ口元を緩めた。 明日香は譜面を閉じながら、きょとんとする。 「え、そうだった? でも、合わせ切れたならよかった」 その一言が、また空気を変えた。 四人はまだ噛み合いきっていない。けれど、噛み合わないまま終わるはずだった音が、今は確かにひとつの形になっている。夕方の薄い光の中で、晴は自分の弓を見下ろし、颯真は指先を見つめ、湊介は静かに息を吐いた。 明日香だけが、最初からそこにあったみたいな顔で笑っていた。
共鳴レジリエンス
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