エラベノベル堂

共鳴レジリエンス

全年齢

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9章 / 全10

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「……譜面、いらないかも」 明日香がぽつりと言った。ソファの端に座ったまま、眠気の混じった目で鍵盤のほうを見ている。深夜の第一練習室は、冷たさの中に妙な静けさがあった。誰も大きく動かないのに、四人の気配だけははっきり近い。 晴は弓を持ったまま、少しだけ眉を上げた。 「いらないって、どういう意味だ」 「そのまま。たまには、見ないでやってみるのもありかなって」 颯真がベースを膝に乗せ直して、口元をゆるめる。 「いいじゃん。さっきから、頭で考えすぎると余計に変になるし」 湊介は黙っていたが、明日香の言葉に反対する気配はなかった。むしろ、薄い暗がりの中で目を閉じるようにして、息を整えている。 「試してみる価値はあります」 湊介がそう言うと、晴も短く頷いた。 「……じゃあ、一回だけ」 明日香が椅子を引く音が、小さく室内に落ちる。楽譜の白さがないだけで、空気は少し頼りなく見えた。けれど、鍵盤に指が触れた瞬間、そんな不安はすぐに崩れる。 最初の和音は、さっきまでよりずっと生っぽかった。 音符の形を借りないぶん、明日香の呼吸がそのまま部屋に広がる。晴はそれを受けるように弓を走らせ、音の先で迷わないようにした。すると、明日香の気配がふっと応える。颯真の低音は、そこに床を敷くみたいに沈み、湊介の内声が隙間を埋める。 「……今の」 晴が思わず漏らす。 「何も見てないのに、わかる」 「見てないから、わかるのかも」 颯真が笑いながら返した。演奏は、譜面を追ういつもの形ではなかった。明日香の次の一打がくる前に、三人のほうが先に気配を受け取ってしまう。誰かのため息みたいな揺れが、そのまま和音の濁りや明るさへ変わっていく。 湊介は弓先を少しだけ強めた。すると、明日香がそれを拾う。音が濃くなる。晴の音が、その濃さに押されずに伸びる。颯真の低音は、誰かの戸惑いを支えるみたいに深く沈む。 「これ……」 湊介が言葉を探す。 「感情が、そのまま音になってる」 「そんな大げさな」 晴は言いかけたのに、否定しきれなかった。さっきから、自分の中の迷いが、弓を通して外へ流れ出ている気がする。明日香の不安が少し強くなるだけで、こちらの和音も陰る。反対に、彼女が何かを楽しいと感じた瞬間、四人の音はぱっと明るくなる。 颯真が息を弾ませた。 「やば。今、明日香の機嫌で音変わったぞ」 「機嫌って言うな」 明日香が笑って、次の音を置く。その一音で、颯真の熱が押し上がる。 「ほら、来た」 晴が低く言う。 今まで別々だったはずの音楽性が、少しずつ塗り替えられていく。主旋律、伴奏、支え、隙間。そういう役割分担が、ただの配置に見えてくる。四人がひとつの流れに乗るたび、誰か一人の意志ではなく、全員の感情が合わさって次の音を決めてしまう。 湊介はそれを感じ取りながら、静かに息をのんだ。 「……戻れないかもしれません」 その声は、驚くほど落ち着いていた。 明日香は鍵盤の上で指を止めずに、ちらりと彼を見る。 「戻るって、どこに?」 誰も答えられない。 ただ、明日香の一言が次の和音を呼び、晴の迷いをほどき、颯真の熱を前へ押し、湊介の静かな執着までやさしく結びつけていく。音はもう、個別の線ではなく、一本の川みたいに流れていた。 そしてその流れの中心で、明日香が小さく笑う。 「ねえ。もっと近くで、聞かせて」 四人の指が、ほとんど同時に動いた。

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