「……誰か、少し動いただけで、気になるな」 晴がそう言って、ソファの背にもたれた。第一練習室の夜は深く、窓の外はもう黒い。暖房のない空気は冷たいはずなのに、床に座る湊介や、譜面台のそばに寄る明日香の気配が、妙に鮮明だった。 「気になるって、何が」 颯真がベースを膝に乗せたまま笑う。 「何がって……呼吸とか」 「それ、かなり近いときの話だよね」 明日香がソファの端に腰を下ろし、膝を抱える。彼女の息が、小さく白く見えそうなほど静かだった。 湊介は床に座った姿勢のまま、目を伏せる。 「たしかに、さっきから変です。誰かが姿勢を変えるたびに、こっちまで引っ張られる感じがある」 「引っ張られる、か」 晴は短く返したが、否定はしなかった。明日香が髪を耳にかける、その小さな動きだけで、胸の奥のどこかが落ち着かなくなる。 「私、みんなの呼吸、少し違うのわかるよ」 明日香がぽつりと言った。 三人が同時に顔を向ける。 「違う、って」 晴が聞き返すと、明日香は指先を自分の膝の上で揃えた。 「晴は、我慢してるときに息が浅くなる。颯真は、何か言いたいときに一回だけ強く吸う。湊介くんは、その前にちゃんと間を置く」 颯真が目を丸くする。 「え、怖」 「怖くないよ。聞こえるだけ」 明日香は悪びれずに言って、少しだけ首を傾げた。 「でも、晴はなんで我慢してるの」 その一言で、空気が止まった。 晴は視線を落とし、しばらく黙ってから、ようやく口を開く。 「責任、かな。うまくまとめなきゃって思うと、変に力が入る」 「まとめる、って」 「みんなの音がいいからこそ、崩したくないんだよ」 言い終えたあと、晴は自分の声が少しだけ硬いのを自覚した。守りたい。守るために踏み込めない。その迷いが、今さら隠しきれない。 颯真が低く笑う。 「晴らしいじゃん。そういうとこ」 「褒めてるのか」 「半分な」 湊介はそのやり取りを見て、静かに息を吐いた。 「晴さんの迷い、わかります。僕も、似たところがあるので」 「お前も?」 「ええ。でも、それ以上に……」 湊介はそこで言葉を切った。言いかけた続きを、自分で持て余したように指先を握る。 明日香がその沈黙を見逃さずに、少しだけ身を乗り出した。 「それ以上に、なに」 湊介は一度だけ目を閉じ、それから小さく笑った。 「たぶん、独占したいんです」 誰もすぐには返せなかった。 颯真が 「え」 と声を漏らし、晴が湊介を見る。 湊介は顔を上げないまま、淡々と続けた。 「独占って言うと強すぎるかもしれません。でも、明日香さんの音が、ほかの誰かに奪われるみたいなのは、少し嫌だと思った」 明日香は目を瞬かせた。 「奪うっていうか、そんな大げさな」 「わかってます」 湊介はそこで初めて、ほんの少しだけ眉を寄せた。 「でも、そう思うくらいには、強く引かれているんだと思います」 颯真が天井を見上げて、苦笑する。 「うわ、そういうの急に言うんだ」 「急ではありません」 湊介は静かに返したが、その耳は少し赤い。 晴はその様子を見て、なぜか自分の胸もざらつくのを感じた。静かなのに、熱い。理屈ではなく、相手の呼吸や間合いに触れるだけで、心の奥が剥き出しになる。 明日香はそんな三人を順番に見て、ふわりと笑った。 「なんだ、みんなちゃんとあるんだね」 「あるって何が」 颯真が聞く。 「隠してた気持ち」 あっさり言われて、晴は思わず顔を背けた。 外で風が鳴る。部屋は冷たいままなのに、四人のいる真ん中だけが妙に密度を増していく。誰かが少し動けば、誰かの感情が追いかけてくる。息を整えようとしても、整えるほどに相手が見えてしまう。 明日香は膝を抱え直しながら、静かに言った。 「眠れなそうだね、このままだと」 その声は小さいのに、妙に近かった。 湊介は返事をしないまま、暗い天井を見上げる。 晴も、颯真も、言葉を探してやめる。 誰も眠る気配のない深夜の練習室で、まだ名のない感情だけが、ゆっくりと形を持ちはじめていた。
共鳴レジリエンス
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