東京の喧騒が遠ざかっても、胸の奥のざわめきは消えなかった。結はキャリーケースの取っ手を握り直し、細い路地の先にある店を見上げた。古い格子戸、色を落とした看板、軒先で揺れる薄い暖簾。祖母が残した和紙問屋は、夕暮れの空気に溶けるみたいに静かだった。 ここに戻ってくるなんて、少し前まで思ってもみなかった。都会の仕事を辞めると決めた夜も、電車に揺られて京都へ向かう間も、結はずっと自分の選択を疑っていた。だが、暖簾に指先を触れた瞬間、その迷いは別の熱に押し出された。紙と木と、長い時間が混ざった匂いが、店の中からふっと流れてくる。 「……ただいま、なんて言っていいのかな」 誰にともなく呟いて、結はそっと暖簾をくぐった。中は驚くほど暗く、静かだった。閉店前の店に似た、息を潜めるような気配。棚には巻かれた和紙が整然と並び、天井近くの梁には年季の入った埃が薄く積もっている。懐かしいはずなのに、知らない場所へ入ったみたいで、結は思わず肩をすくめた。 「帰ってきたのか」 低い声がして、結は振り向いた。蔵の引き戸の前に立っていたのは、同級生の陸だった。学生の頃より少しだけ背が伸びたように見えるのに、目つきだけは昔のまま真っすぐで、結は一瞬、言葉を失った。 「なんで、あんたがいるの」 「説明すると長い。とりあえず、祖母さんから頼まれてた」 頼まれていた。その一言だけで、胸の奥がきゅっと縮む。結が返事を探していると、陸は気まずそうに視線を外し、蔵の方へ顎をしゃくった。 「中、片づけるの手伝う。ほっとくと本当に店じまいになる」 「店じまい、って……そんなに切迫してるの」 「かなり」 あまりにも即答で、結は苦笑するしかなかった。二人で蔵の戸を開けると、ひんやりした空気が流れ出した。積み重なった箱、布をかぶせられた道具、古い帳面の束。祖母がひとりで守ってきた時間が、そのまま押し込められているみたいだった。 結は箱のひとつに手を伸ばしかけて、ためらった。何を見ても、きっと祖母の不在を思い知らされる。なのに、陸が無言で箱を持ち上げたせいで、結は逆に息を整えた。 「……継ぐ、ってこと?」 「少なくとも、今このまま放っておくよりは、二人で考えたほうがいい」 二人。その響きに、結は思わず陸を見た。ぎこちない。それでも、ひとりで背負うには重すぎる空気が、確かにそこにあった。 「わかった。じゃあ、まずは片づけから」 「それでいい」 陸が短く言って、埃を払った。その手つきは不器用なくせに迷いがない。結は小さく息を吸い、蔵の奥へ視線を向けた。祖母の残した店は、思っていたよりずっと深い。けれど今はまだ、その深さに足を取られないように、目の前の箱をひとつずつ開けるしかなかった。
記憶を染める和紙
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