夕暮れの市場は、干した魚と香辛料の匂いが入り混じっていた。店先の木棚に、結衣奈は祖母譲りの小瓶を一つずつ並べ直す。琥珀色、淡い青、白く曇った瓶。指先で位置を整えるたび、棚の様子がおさまっていく気がした。 「よし、今日も無事」 そう小さくつぶやいた、その時だった。 戸口の鈴が、控えめに鳴る。入ってきた男は、旅装の埃を肩に積もらせたまま立ち尽くしていた。顔立ちは整っているのに、どこか傷ついた獣みたいな目をしている。結衣奈は警戒を隠さず、手元の薬包に触れた。 「何をお探しですか」 男は一拍遅れて口を開く。 「昔の罪を、思い出せない」 声音は低く、乾いていた。結衣奈は思わず眉をひそめる。 「薬屋に来て、ずいぶん物騒な頼み方をしますね」 「一晩だけでいい。戻してほしい。失くしたままでは、先に進めない」 その言葉に、店の奥で吊るした乾燥草がわずかに揺れた気がした。結衣奈は男を見つめる。胸の奥が、理由もなくざわつく。危うい。そう、はっきり分かった。記憶を戻す薬は、ただの眠気止めや腹痛薬とは違う。人の内側をこじ開ける、扱いを誤れば折れてしまう類いのものだ。 「名前は」 「怜也……だった、はずだ」 はず、という言い方が引っかかる。だが客を門前払いするほど、結衣奈は冷たくなれない。祖母はいつも言っていた。薬売りは病を選ばない。けれど、薬の意味は選べと。 「危ないですよ。今夜だけのつもりでも、戻るものが多すぎれば、眠れなくなる」 怜也は静かに目を伏せた。 「それでもいい。忘れたままよりは」 結衣奈は短く息を吐き、棚の奥から必要な瓶を取り出す。計量皿に粉を落とし、乳鉢でゆっくり擦る。草の香りが立ち、熱を含んだように鼻先をくすぐった。 「座って。途中で気分が悪くなっても、勝手に立たないでください」 「承知した」 返事だけは妙にまっすぐだ。結衣奈はそんな彼を横目に、薬草をひとつずつ混ぜ合わせていく。祖母の手つきが、ふいに指先へ重なる。あの人なら、この男の顔を見ただけで何か言っただろうか。問いは胸の奥で震えたまま、まだ言葉にならない。 薬液の色が、ゆっくりと深まっていく。結衣奈は火の揺らぎを見つめながら、どうか今夜だけは穏やかに終わってくれと願った。だが、瓶の中で光る液面は、まるでこの店に辿り着くべきではない秘密を、静かに抱え込んでいるようにも見えた。
記憶を返す薬屋
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