薬液は、鍋の底で小さく息をしているようだった。結衣奈は火加減を落とし、木べらでゆっくりと撹拌する。店内には乾いた葉と甘い樹脂の匂いが満ち、戸口の鈴はもう鳴らない。怜也は椅子に浅く腰掛けたまま、両手を組んでいた。 「……思い出せるかもしれないのは、十年前の町だ」 結衣奈の手が止まる。 「十年前?」 「火事があっただろう。いや、火事って言い方で足りるのか……誰かが、何かを燃やした。密書だ、たぶん」 怜也は額を押さえ、苦しそうに笑った。 「自分の名も、どこまでが本当か分からない。けど、その夜の匂いだけは妙に残っている。煤と、濡れた石と、焦げた紙の……」 「そこまでで十分です」 結衣奈は静かに言った。無理に掘り返せば、心は簡単に傷つく。祖母がそう教えていた。薬は記憶を返す道具じゃない。返した先で立てるかどうかまで、見届けるものだ、と。 怜也は苦笑した。 「優しいんだな」 「客商売ですから」 「嘘つけ」 思わず口元がゆるみかける。だが次の瞬間、怜也の顔色がわずかに変わった。 「……違う。笑ってた奴がいた。密書を抱えて、誰かが走ってた。俺はそれを追って……いや、追ったのか、逃げたのか」 「怜也さん」 「分からない。分からないが、あの夜に戻るのが怖い」 その告白に、結衣奈は祖母の声を思い出した。真実は薬より苦いことがある。それでも口にするなら、飲み込む覚悟を持たせなさい。 彼女は薬匙を置き、調合した液を小瓶へ注いだ。琥珀色の表面が、灯りを映して静かに揺れる。 「ひとつだけ聞きます」 怜也が顔を上げる。 「今夜だけ真実を見る覚悟はあるのか」 店の奥で、草束がかすかに鳴った。怜也はしばらく黙っていたが、やがて深く息を吸い込んだ。 「ある」 その一言に、結衣奈は小瓶の栓へ指をかける。ためらいは残っていた。だが、渡さなければ何も始まらない。 「飲んでください。途中で逃げても、薬は待ってくれません」 怜也は小瓶を受け取ると、一度だけ目を閉じた。そして、迷いを振り切るように小さくうなずくと、栓を抜いて中身を飲み干した。 結衣奈がそれを見届けた瞬間だった。 瓶の中の薬が、ふっと淡く光る。 次いで、光は怜也の喉元から指先へ、静かな波みたいに広がった。 「っ……」 怜也の肩が強張る。結衣奈は息を呑んだ。封じられていたものが、今まさに扉を押し開ける気配がした。
記憶を返す薬屋
全年齢小説ID: cmqo1gku109os01p61okgdnbq
