エラベノベル堂

鋼の朝に、福猿は帰る

全年齢

小説ID: cmnegsz4s000101pah67lc6l8

5章 / 全10

夕方の事務所は、昼の熱が窓の外へ逃げきらず、扇風機の羽音だけが低く回っていた。壁際の棚には伝言板へ貼る前の求人チラシが束になって置かれ、健一はそれを一枚ずつめくっては、深く息を吐いた。紙の端を押さえる指先に、やりきれなさがにじんでいる。 「人が来ないな」 独り言のような声だったが、部屋にいた奈津美には十分に届いた。山の見える町で工場を続けるのは簡単じゃない。空いた手を埋めるはずの紙切れが、今日はやけに薄く見える。健一は求人欄の文字を睨み、机の縁に肘をついた。 その向かいで、サル太は首を傾けていた。健一の落ちた肩、ため息、めくるたびに揺れる紙の束。全部、静かに見ている。やがて小さく身を乗り出すと、机の上に散らばっていた輪ゴムをひとつずつ拾い上げ、指の間で丸くまとめ直した。次に、風で端が浮いていたメモをそろえ、向きを合わせる。ばらけた書類の角を鼻先で押し、ぴたりと束ねていく。 奈津美は思わず手を止めた。サル太の動きは、ただ真似しているだけじゃない。整えるべきものを見つけて、迷わず手を伸ばしていた。机の上の乱れがなくなるたび、健一の眉間に寄っていた皺も少しずつほどけていく。 サル太は最後に、求人チラシの一枚を両手で持ち上げた。紙を折らないように気をつけながら、端をまっすぐに揃え、束の上へ戻す。その仕草は不器用なのに、妙に丁寧だった。自分もここにいる、というより、この場の役に立ちたいのだと伝えようとしているみたいに見える。 「この子、ちゃんと見てる」 奈津美の声は小さかったが、事務所の空気をやわらかくした。健一もようやく顔を上げ、サル太が整えた机の上を見た。ぐちゃついていた紙の山は、さっきよりずっと見やすくなっている。 「見てるどころか、片づけまで覚えたか」 苦笑まじりの声に、奈津美は静かにうなずいた。サル太は褒められた意味を正確には知らない。それでも、二人の視線が自分に向いたのを感じて、短く鼻を鳴らした。机の隅に残った輪ゴムをもう一つ拾い上げると、今度はそれを丁寧に並べ、満足したように座り直す。 健一は求人チラシを持ち上げ、そっと揃えた。さっきまでのため息は、もうそこにはなかった。事務所の隅で、紙の音と扇風機の風だけが静かに交わる。サル太はその真ん中で、まだ何かできることを探すように、次の書類へ目を向けていた。

5章 / 全10

TOPへ