昼下がりの光が工場の壁に傾きはじめるころ、裏口の前はいつもより静かだった。検品スペースの緊張がまだ工場全体に残っていて、誰もが必要以上の音を立てないようにしている。その薄い沈黙の中で、サル太だけが落ち着かない様子で裏口のたたきを行き来していた。 扉の隙間から外の匂いが入ってくる。土と草の乾いた匂い、少し冷えた風。サル太は鼻先を向け、何度も外を確かめたあと、前足で取っ手のあたりを探った。開けろ、と言っているわけではない。ただ、あちら側へ行けるかどうかを試しているだけのような動きだった。 奈津美はその背中を見て、胸の奥がひやりとした。ここまで一緒に過ごしてきた。騒ぎもあったし、笑いもあった。けれど、この裏口の先にあるのは工場の続きではない。柵の向こうに広がる山の気配だ。サル太の目は、迷いながらも確かに外を見ていた。 「サル太」 呼ぶと、彼は一度だけ振り向いた。奈津美の声を覚えている顔だった。だが次の瞬間には、また外へ視線を戻す。そこには、ここで覚えた作業の順番や、人の顔色よりも先に、もっと古い何かがあるのだと感じられた。 奈津美は扉に手をかけたまま、すぐには閉めなかった。閉じ込めるための扉にしたくなかった。ふと、そう思ったのだ。人の役に立つから、ここに置いておく。そんな考え方は、もう違う気がした。サル太は道具ではない。ましてや、ただ工場に居ついた珍しい存在でもない。 振り向いた健一が、その沈黙に気づいた。最初はいつものように厳しい顔をしていたが、サル太が扉の外へ手を伸ばす仕草を見ると、視線がわずかに揺れた。 「出してやるのか」 低い声だった。答えは簡単ではない。工場の外に出れば、見つかるかもしれない。ここで得た安全も、いつまで続くかわからない。だが、閉じ込めて守ることが、守ることの全部ではない。 奈津美は小さく息を吐いた。 「この子を、このまま閉じ込めてはいけない気がする」 健一はすぐには返さなかった。裏口の向こうで風が草を鳴らす。サル太はその音に耳を立て、扉の縁に指をかけたまま、じっとこちらを待っているようだった。工場を守りたい気持ちと、サル太を守りたい気持ちが、同じ場所でぶつかっている。 「だが、見られたら終わりだ」 健一の言葉は苦かった。公にできない現実は、冷たい釘のように場の空気へ残る。奈津美もそれをわかっていた。だからこそ、簡単に外へ出していいとも言えない。けれど、だからといって、ここに縛りつける理由にもならない。 サル太は二人の間を見比べ、それから裏口の外へ続く細い影を見た。何を決めたのかはわからない。ただ、前足を一歩だけ外へ出しかけ、そこで止まる。その動きは、別れとも逃走とも違っていた。 奈津美は扉の木枠に手を添えたまま、その小さな背中を見つめた。工場の騒がしさは背後にあるのに、今はこの瞬間だけがやけに鮮明だった。誰も先を言わない。言えないまま、ただ裏口の前で、三人の気持ちだけが静かに揺れていた。
鋼の朝に、福猿は帰る
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