エラベノベル堂

鋼の朝に、福猿は帰る

全年齢

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9章 / 全10

会議室の蛍光灯は半分だけ点いていて、長机の上に広げられた工程表を白く照らしていた。窓の外では、夕方の山風が工場の壁をやわらかく叩いている。健一が赤い鉛筆で納期の欄を囲み、奈津美はその横で、保護の手立ても含めた段取りを書き足していた。紙の上には、作業順と人の配置が何度も引き直された跡が残る。誰も口をはさまない。はさめない。遅れを取り戻すことと、サル太の存在をどう守るかを、同じ机の上で並べて考えるしかなかった。\n\n 「今夜、止まらずにやるしかない」 \n健一の声は低かったが、迷いは少しだけ削れていた。材料の確認、組み立て、検品、最終の締め直し。普段なら分けて進める工程を、休憩を挟みながらでも夜のうちに畳みかける。人手が足りないぶん、無駄な動きを一つでも減らすしかない。奈津美は頷き、空いた欄に小さく印を付けた。\n\nそのとき、会議室の隅にいたサル太が、机の上の紙をじっと見つめた。工程表の線よりも、人の指先よりも、彼は各所に置かれた丸印と矢印を目で追っていた。奈津美が気づいて顔を向けると、サル太は一度だけ彼女を見返し、それから部屋の照明の端へ視線を移した。\n\n薄い音がした。誰かが試しに壁のスイッチを押したのだろう。蛍光灯がわずかに揺れ、室内の明るさが一瞬だけ不安定になる。サル太の耳がぴくりと動いた。停電の予兆に気づいたような、落ち着かない気配がその背中を走る。奈津美は思わず息をのんだ。\n\n次の瞬間、サル太は会議室の扉へ飛び、廊下の先を確かめるように身を乗り出した。非常灯の位置を覚えているのか、薄暗い通路の壁際を迷いなく見上げていく。その動きは、逃げるためではなかった。暗くなったとき、どこへ向かえばいいのかを知っている者の、それだった。\n\n 「道、わかるのか」 \n誰かが思わずつぶやいた。サル太は返事の代わりに、短く鳴いて廊下へ一歩を踏み出す。奈津美がその後ろ姿を追うと、彼は非常灯の並ぶ方向を確かめるように立ち止まり、待てと言わんばかりに振り返った。まるで、ここから先は自分が先導すると言っているようだった。\n\n健一が工程表をたたみ、深く息を吐く。\n 「……やれるな」 \nその一言で、会議室に張りつめていた糸が少しだけ緩んだ。奈津美はサル太の見上げる先を確かめ、最後の組み立てを任せる段取りへと頭を切り替える。暗くなっても、迷わず動ける導き手がいる。工場の夜は長いはずなのに、今はまだ始まったばかりのようだった。

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