書庫を出たあとも、地図の線は頭の中に残り続けていた。魔王城の石壁は夜の深まりを吸い込み、廊下の灯りは頼りなく揺れている。私は抱えた資料を胸に寄せながら、魔王の足音が背後で静かに続いているのを感じていた。言葉少ななまま進むその気配は、問い詰めるでも、止めるでもない。ただ、来いと言われているようだった。 やがて辿り着いたのは、普段は誰も近づかない区画だった。空気がひんやりと重く、壁の彫り物は長い年月で摩耗し、礼拝堂だった名残だけがかろうじて読み取れる。祭壇のような石台はひび割れ、床には細い封印の筋が走っている。私はその前に立つだけで、背筋の奥にざらつくものを覚えた。 「ここだ」 魔王の声は低かった。私は頷き、慎重に封印の縁へ視線を落とす。何かが封じられているというより、流れそのものが歪んでいる。空っぽのはずの空間が、浅く波打っているみたいだった。私はそっと懐から、厨房で使っていた香草の切れ端を取り出す。何気ない匂いのはずなのに、近づけた途端、床の模様の一部がわずかに脈打った。 息をのむ。魔王もまた、目を細めた。 「反応した……?」 私は香草を少しだけ揉み、匂いを強めてみる。すると、封印の奥でねじれたような魔力が、呼吸に似た揺れを返してきた。まるで眠っていた何かが、食事の気配にだけ耳を傾けているようだった。料理の香りが、ただ食欲を呼ぶだけではない。土地を巡る流れのどこかを、静かに刺激しているのかもしれない。 考えがつながった瞬間、胸の奥が熱くなった。食卓で起きていた小さな変化は、気のせいではなかったのだ。椀を差し出すたび、魔族たちの顔色が変わり、厨房の空気が和らいだあの感覚。その先に、もっと大きな流れがあった。 私は魔王を見上げる。彼もまた、封印を見下ろしたまま黙っていたが、その沈黙は今までよりずっと重かった。私は口を開く。 「各地の素材を、つなげませんか」 魔王の視線が、ゆっくりこちらへ移る。 「宴です。人間の土地と魔族の土地、それぞれのものを持ち寄って、ひとつの場で食べる。香りも味も、流れも、そこで交わるはずです。食べることなら、違うもの同士を無理やり壊さずにつなげられる」 言い切ったあとで、自分の声が少し震えていたことに気づいた。だが引けなかった。料理番として鍋を守るだけでは足りない。ここから先は、場を整える役目になる。 魔王はしばらく動かなかった。礼拝堂跡の闇が、二人の間に薄く沈む。それでも彼は否定しなかった。やがて短く、しかし確かに頷く。 「……やるなら、今だな」 私は封印の脈動を見つめたまま、小さく息を吐いた。宴の名を口にしただけで、石床の下から何かがかすかに応えた気がした。次にやるべきことは、もうはっきりしている。
魔王城厨房、和解は湯気の向こう
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