稽古場の空気が変わったと誰もがはっきり感じたのは、通し稽古のあとにレオが自分から大道具場へ顔を出した日だった。木屑の匂いと乾ききらない塗料の匂いが混じる中、湊は新しい膜材を光に透かしていた。そこへ現れたレオは、いつものように大仰な足取りで入ってきたくせに、開口一番 「この前は言い方がきつかった」 と言った。湊は手を止め、しばらくしてから小さく首を振った。 「俺も、先に言うべきでした」 それだけの会話だったのに、隅で帳面を広げていた志乃は、聞こえないふりのまま肩の力を抜いた。 とはいえ、和解したからといって騒ぎが消えるほど舞台は甘くない。翌日にはレオがフィナーレ用の上着を試着し、鏡の前で一回転して 「裾が軽い。階段の上で風を切ったとき、夢が足りない」 と真顔で言い出した。衣裳係が呆れて天井を仰ぎ、志乃はまた鉛筆を走らせる。だが今回は、その横で湊がぼそりと 「布の裏に薄い芯を入れれば、重くしないで広がるかも」 と口を挟んだ。レオがすぐに振り向く。 「できるか」 「たぶん」 「じゃあ、たぶんで進めよう」 以前なら命令だけで終わっていたやり取りが、妙に噛み合っていた。 問題はスライム風の演出だった。揺れは美しい。だが美しすぎて、ときどき役者の動きを食ってしまう。演出家は腕組みをして 「派手なのに邪魔をしない、そのぎりぎりを狙いたい」 と無茶を言う。志乃は床にしゃがみ込み、きっかけ表に赤い線を引き足した。音楽一小節ぶん送風を遅らせ、群舞の視線が客席に流れる瞬間だけ揺れを大きくする。湊は装置の箱を開けて管の角度を直し、レオは実際に階段を上り下りしながら見え方を確かめる。誰か一人の正解ではなく、少しずつ寄せた知恵の形が稽古場に積み上がっていった。 それでも小さな爆発は起こる。志乃が気を回しすぎて休憩時間を削り、座員たちから不満が出たこともあった。 「ごめんなさい、押していたから」 と頭を下げる彼女に、年長の娘役が苦笑する。 「あなたが倒れたら元も子もないの」 その言葉に、志乃はようやく自分の手帳を閉じた。代わりに仕事を振られた若手たちは最初こそ戸惑ったが、任されると案外頼もしい。舞台袖の景色は、知らないうちに少しずつ広がっていた。 夜の通し稽古では、フィナーレの輪郭がようやく見え始めた。大階段の頂に立つレオの背後で、半透明の幕が月明かりみたいな照明を弾き、群舞の行進に合わせてゆるやかに脈打つ。客席は空なのに、そこへ拍手の幻が満ちてくるようだった。最後の音が止むと、しばらく誰も動かなかった。やがて演出家が静かに言う。 「ようやく、この作品の馬鹿馬鹿しさが品になってきた」 それは明彩堂では最大級の賛辞だった。 帰り支度の最中、志乃が舞台を振り返る。雑然とした稽古場、貼り替えられた印、積み上がる直しの山。そのどれもが、少し前より頼もしく見えた。レオは肩に上着を引っかけたまま、 「まだ足りない」 と笑う。湊は照明の残りを見上げながら、 「でも、前よりずっといいです」 と珍しくはっきり答えた。古い劇場はきしみながら、その言葉を飲み込む。初日の幕が近づくにつれ、不安は消えるどころか輪郭を増していく。けれどその隣で、同じくらい確かな手応えも育っていた。
緞帳の向こう、翠の喝采
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