初日まであと四日となった朝、明彩堂の空気は張りつめているのに、どこか浮き足立ってもいた。廊下を走る者の足音まで弾んで聞こえるのは、舞台の形がようやく見えてきた証拠でもあり、同時に、完成が近づくほど粗も目立つからだった。志乃は開演までの進行表を胸に抱え、舞台袖と衣裳部屋と楽屋口を何度も往復していたが、そのたびに誰かに呼び止められる。 「袖の花飾りがひとつ足りない」 「二幕の早替え、留め具が固い」 「階段の下手側、きしむ音が増えた」 返事をするたび仕事が枝分かれし、彼女の鉛筆は紙の上で悲鳴みたいに走った。 一方のレオは、今日は珍しく稽古の最初から機嫌が悪かった。舞台稽古で客席からの見え方を確認した途端、 「フィナーレの最後、僕の位置が半歩深い」 と言い出し、床の印を自分で貼り直し始めたのである。群舞の並びまで巻き込みかねない変更に、座員たちの顔がこわばる。志乃が駆け寄って事情を聞くと、レオは舞台を見上げたまま言った。 「階段の頂に立ったとき、奥の幕の揺れと重なって輪郭がぼやける。せっかくの決めが、少しもったいない」 以前なら反射的に突っぱねそうな場面だったが、湊は舞台下からその角度を見上げ、少し考えてから答えた。 「立ち位置を変えるより、幕の送風を半拍遅らせた方が綺麗かもしれません」 レオはすぐに黙り、やがてうなずく。 「じゃあ、それで試そう」 その一言だけで、周囲の肩から見えない重りがひとつ下りた。 だが穏やかさは長く続かない。試した送風の遅れは確かに見映えを良くしたが、今度は階段脇の膜が予想以上に大きくたわみ、下りてきた娘役の羽根飾りをふわりと飲み込んだ。悲鳴と笑いが同時に上がり、当の娘役は半透明の膜から顔だけ出して、 「私、何の役になったの」 と真顔でつぶやく。稽古場はどっと沸き、志乃は額を押さえ、レオはこめかみを押さえ、湊だけが真っ青になって駆け寄った。 「すみません、角度を戻します」 その必死さに、膜から解放された娘役が吹き出す。 「大丈夫よ、ちょっと高貴な餅みたいだっただけ」 笑い声が広がり、ぴりついていた空気が少し和らぐ。 昼休憩のあと、志乃はついに舞台袖の木箱に腰を下ろした。手帳には赤字の直しが並びすぎて、どこから片づけるべきか一瞬わからなくなる。そこへ缶入りの甘い珈琲を差し出したのはレオだった。 「飲め。顔色が舞台の下塗りみたいだ」 失礼な言い方なのに、声音は思いのほかやわらかい。少し遅れて湊も現れ、紙の束を差し出す。装置の修正案だった。送風の経路、膜の厚み、膨らみを逃がす切れ目まで、細かく整理されている。以前の彼なら黙って工房にこもっていたはずだ。志乃は二人の顔を交互に見て、小さく笑った。 「なんだか、ちゃんと一座っぽいですね」 「今さらか」 とレオが言い、 「今さらです」 と湊が続ける。その噛み合い方がおかしくて、志乃は声を立てて笑った。 その夜の通しは、完璧とは程遠いのに不思議な熱があった。誰かが一歩遅れても別の誰かが拾い、装置が少し気まぐれでも音楽が流れをつなぐ。大階段の上に集まる光のなかで、レオの背を見上げた志乃は、この舞台はもう一人の手柄では立たないのだと、はっきり感じた。湊が袖から合図を送り、群舞がそれに応える。明彩堂の古びた天井の下で、ばらばらだった力はようやく同じ方向へ走り始めていた。だからこそ誰もまだ知らない、最後の大騒ぎが、すぐそこまで来ていることにも気づかなかった。
緞帳の向こう、翠の喝采
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