エラベノベル堂

緞帳の向こう、翠の喝采

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5章 / 全10

初日の明彩堂は、開演前から妙に息づいていた。客席へ続く廊下には香水と古い木の匂いが混じり、舞台裏では化粧の粉が灯りを受けて淡く漂う。志乃は進行表を握りしめたまま、開場の拍手にも似たざわめきを袖で聞いていた。湊は装置盤の前に立ち、指先で何度も同じ確認を繰り返す。レオはすでに衣裳をまとい、鏡の前で胸元を整えながらも、いつになく口数が少ない。緊張しているのだと気づいたのは、たぶん志乃だけだった。 幕が上がると、舞台は見事に走り出した。群舞の行進は軽やかで、笑いどころでは客席が素直に揺れ、スライム風の幕も今まででいちばん上品にきらめいた。レオの声は劇場の隅までまっすぐ届き、志乃は袖で合図を送りながら、何度も胸の奥をなで下ろした。湊も装置の脈動を聞くように目を凝らし、危うい箇所がひとつずつ無事に過ぎていくたび、息を浅く吐いた。 問題が顔を出したのは、よりによってフィナーレ直前だった。大階段の上段に仕込まれたスライム状小道具の一群が、照明の熱と送風の重なりで、想定よりふくらみすぎている。袖から見上げた志乃は、最初それが光の加減だと思った。だが湊の顔色が一瞬で失せるのを見て、背中が冷えた。 「逃がし口が足りない」 彼はかすれた声で言い、操作盤へ飛びつく。けれど音楽は止まらない。舞台上ではすでにレオが大階段を上り始め、群舞が行進の形をつくっている。 次の瞬間、頂から半透明の塊が、春の雪崩みたいにあふれた。つやつや光るそれは一気に段をのみこみ、脇の幕と絡み合いながら、舞台いっぱいへ広がっていく。客席から悲鳴と笑いが同時に上がり、娘役の一人が足もとを見て目を丸くし、群舞の列はあやうく崩れた。志乃は反射的に駆け出しかけたが、その前にレオが階段の中腹で振り返った。ほんの一拍、彼は舞台の惨状を見た。それから、まるで最初からそういう演出だったみたいに両腕を広げた。 「お待たせしました、ご機嫌な大行進はここからが本番です」 よく通る声が混乱の上に鮮やかに落ちる。 「本日の主役は、少々張り切りすぎたようだ」 客席に笑いが走った。レオは足もとに寄ってきた光る塊をステップひとつでかわし、それを連れのように従えながら歌い出す。志乃ははっとして座員たちへ合図を飛ばした。 「隊形、円に変更! 拾える人は拾って、波にして!」 意味を理解した群舞が即座に散り、あふれた小道具を布の裾や手の動きで転がし、舞台上に不思議なうねりを生み出していく。湊も装置盤の前で膨張を止めるのではなく、送風を細かく切り替えた。暴れるだけだった塊が、音楽の拍に合わせて脈打ち始める。 そこから先は、ほとんど全員の反射だった。娘役たちは笑顔のまま光のしずくを追いかけるように舞い、男役たちは行進を崩したまま、あえて大波に乗る船乗りのような足取りで場をつなぐ。志乃は袖で次々きっかけを変え、照明係は広がる半透明の海に金と青を流した。レオはその中心で歌いながら、群舞の動きを拾い、あふれるものすべてに意味を与えていく。失敗が、みるみるうちに巨大な祝祭へ形を変えていった。 やがて劇場いっぱいに、ぷるぷる光る洪水のような景色が満ちた。大階段も、行進も、予定していた美しい整列ももうない。それでも最後の決めでレオが腕を上げたとき、客席は一瞬しんと静まり、その直後、割れるような拍手が湧き起こった。袖で立ち尽くした志乃の隣で、湊は信じられないものを見る顔のまま、へたりこみそうになる膝をこらえていた。誰も止められなかったはずの大失敗は、その夜いちばん生きた場面として、確かに観客の胸へ飛び込んでいた。

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