エラベノベル堂

緞帳の向こう、翠の喝采

全年齢

小説ID: cmnei60wd000501rvhx29hq9k

8章 / 全10

翌日の明彩堂には、昨夜の熱がまだ薄く残っていた。朝の掃除をする者まで、廊下ですれ違うたびに 「あの場面」 を囁き合う。受付には早くも追い券を求める客が現れ、新聞記者まで様子を見に来たらしいという話が楽屋口を駆けた。たった一夜で、あの洪水は劇場の外へ歩き出していた。けれど舞台裏にいる三人の足もとは、浮かれてばかりもいられない。フィナーレの装置は徹夜で点検され、大階段の上では湊が目を赤くしたまま調整にかかっていた。 「再現はしない。でも、昨夜よりつまらなくもしない」 レオがそう言って階段の途中に立つと、志乃は手帳を閉じてうなずいた。以前なら無茶に聞こえたはずの言葉が、今は不思議と挑戦状のように胸へ入ってくる。湊は新しく設けた逃がし口を確かめながら、低い声で 「暴れすぎないようにはできます。でも、少し生きものみたいな揺れは残します」 と答えた。レオは満足げに笑う。 「それでいい。昨夜の奇跡を真似るんじゃない。昨夜を知ったうえで、今日の舞台をやる」 二日目の幕が上がると、客席の期待は最初からはっきり見えた。笑いは半拍早く、拍手は場面の切れ目を待ちきれない。観客は皆、何か起こるのを待っている。志乃は袖でその気配を感じながら、昨日よりも落ち着いて合図を送っていた。もし狂っても拾える。そう思えるだけで、舞台の景色は違って見えた。レオの声はますます自由で、湊の装置は危うさを飼いならした獣みたいに、ぎりぎりのところで美しく揺れた。 そしてフィナーレ。大階段の頂に光が集まり、半透明の幕が呼吸する。客席が昨夜の再来を待って息をのむのがわかった。だが今夜、スライム状の小道具はあふれなかった。音楽に合わせ、計算された輝きだけを見せて、優雅に脈打つ。整いきった、美しい終幕だった。幕が下りる寸前、客席の一角から、なぜかくすりと笑う声がした。それが波みたいに広がり、やがてあたたかな拍手になる。期待を裏切られたのではない。期待より先へ連れていかれた拍手だった。 カーテンコールでレオは深く礼をし、それから袖にいる志乃と湊へ目だけで合図した。二人は昨夜ほど慌てず、けれど少し照れながら明かりの中へ出る。拍手の大きさは変わらない。むしろ、今夜は昨夜とは別の意味で届いてくる。大騒ぎを越えたからこそ、整えて終われる。その強さを、観客はちゃんと見ていた。 終演後、客席の通路で年配の常連客が仲間に話しているのが聞こえた。 「初日は伝説、今日は作品になったね」 その言葉に、志乃は思わず足を止めた。湊は少しだけ目を伏せ、それから静かに笑う。レオは肩をすくめてみせたが、得意げというより晴れやかな顔だった。 明彩堂に残ったのは、ただの事故の噂ではなかった。崩れかけた一夜も、それを抱えて立ち直った二夜目も、まとめて『スライム行進曲』の伝説になる。混乱だけでは終わらず、奇跡だけにも寄りかからない。そんな舞台をつくれたのは、三人だけでも、一人だけでもなかった。古い劇場の天井の下で育った絆が、ようやく一本の物語になったのだ。

8章 / 全10

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