翌朝、医局の空気はまだ少し冷たかった。白い蛍光灯の下で、綾香はカルテの束を抱え直しながら、回診の順番を確認する。昨日までと同じはずなのに、胸の奥だけが妙に落ち着かない。 「先生、次は四床です」 「ありがとう。行きましょう」 歩き出した瞬間、廊下の向こうから昭太が小走りで追いついてきた。 「綾香先生、おはようございます。昨日、遅くまで残ってました?」 「え?」 綾香は瞬きをした。昨夜のことを思い出そうとしても、霧の向こうに指を伸ばすみたいに掴めない。 「たぶん……眠かった気はするけど」 「そうですか。あの、先生、最近ちょっと無理してません?」 昭太の声は、いつもの明るさを保ちながらも探るように慎重だった。綾香はそれに気づいて、困ったように笑う。 「無理っていうほどではないですよ。たぶん、私が一番驚いてます」 「何にですか」 「自分の記憶に」 言いながら、綾香は回診の扉を開けた。患者の顔を見れば、迷いは一度でほどける。血圧、呼吸、痛みの具合。ひとつずつ確かめていくうちに、曖昧だった感覚は診療のリズムに押し流されていった。 回診を終えて医局へ戻ると、掲示板の前で看護師たちが小さくざわついていた。 「これ、綾香先生宛てですよね」 「え、ほんとに? すごくない?」 貼られていたのは、丁寧な字で綴られた感謝のメッセージだった。困っていた患者が助かったことへの礼と、病棟の空気を明るくしてくれることへの言葉。しかも、その隣には、棚ごとに色分けされた資料の束がきれいに並んでいる。開けば、必要な順に整えられ、付箋まで一枚ずつ見やすく揃っていた。 「え……誰がこんなに?」 綾香が呟くと、看護師が肩をすくめた。 「さあ。でも昨日のうちに整理されたみたいです。先生、忙しかったでしょう?」 「昨日のうちに……」 綾香はぼんやりと資料に触れた。手触りは確かに新しい。けれど自分の記憶には、こんな作業をした場面が一切ない。 昭太が掲示板を見上げたまま、何気ないふりで聞く。 「先生って、もしかして夜にも働いてたりします?」 「まさか」 即答したあとで、綾香は自分でもおかしくなって、ふっと吹き出した。 「そんな器用だったら、私もっと寝てます」 「ですよね」 昭太も笑ったが、その目はまだ少しだけ疑いを残していた。綾香はそれに気づかないふりをして、感謝メッセージの前で一礼するように頭を下げる。 「……ありがとう、ってことなんでしょうね」 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからないまま。
白衣の朝、月影は街を診る
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