エラベノベル堂

白衣の朝、月影は街を診る

全年齢

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3章 / 全10

古時計店の前で足を止めたあの日から、恒一は自分の生活に見張りをつけるようになった。帰宅すると玄関に細い紙を挟み、机の引き出しの向きをそろえ、靴紐の結び方まで覚えて眠る。だが朝になると、紙はきれいに畳まれて花瓶の下に敷かれ、引き出しには新しい絆創膏が補充され、靴紐だけが妙に走りやすい結びに変わっていた。几帳面なのか大胆なのか、もう一人の自分は性格まで腹立たしい。 昼の診療は相変わらず忙しかった。けれど患者たちの表情は、このところ少し明るい。港で働く若者は給与の天引きの不正が見直されたと報告し、アパートの更新料で揉めていた女性は、管理会社の担当が急に低姿勢になったと笑った。恒一は安心すると同時に、背筋の奥がひやりとする。町の困りごとが解けるたび、夜の足音が自分の中で近づいてくるようだった。 そんな折、神崎が缶コーヒーを片手に診察室へ顔を出した。 「白野先生、最近やけに町内の平和に貢献してない?」 「していたら表彰されたいです」 「いや、なんか困りごと相談所みたいになってるから」 「相談されるだけです。解決は別部署です」 「別部署って誰」  恒一は答えに詰まり、聴診器を机に置くふりで視線を逸らした。神崎は冗談めかしていたが、その目には本気の心配も混じっている。 「ちゃんと寝てる?」 「寝ています。たぶん私の一部は」 「怖いこと言わないで」  二人で笑ったものの、笑い終えたあとに残る沈黙は軽くなかった。 その夜、恒一はついに起きて待つ作戦に出た。ソファに座り、濃い茶を入れ、手帳を膝に置く。眠気が来たら症状を記録しようと思ったのに、気づけば朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。膝の上の手帳には、見覚えのない勢いのある字。  寝落ちは減点。だが収穫あり。浜風会館、地下搬入口、金曜。医療廃棄の帳簿をごまかしている。匂いに注意。  恒一はその一文を三度読み返した。医療廃棄物。その言葉だけで、医師として笑えない重みがある。もし事実なら、町の水も人も危うい。しかも浜風会館は、近く健康講座の会場として病院も出入りする場所だった。 昼休み、彼女は会館の担当者に講座資料の搬入経路を確認するという名目で電話をかけた。相手は妙に歯切れが悪く、地下の利用状況を尋ねると話題を変えた。受話器を置いた瞬間、恒一の中で昼の理性と夜の直感が同じ方向を向いた気がした。 帰り際、ロッカーを開けると、白衣の袖から小さな鍵が落ちた。タグには何も書かれていない。ただ、金属の冷たさが掌に妙になじむ。恒一はしばらくそれを見つめ、それから深く息を吸った。今夜、自分が何者なのかまではわからなくてもいい。ただ、この鍵が開く先に、誰かの体と暮らしを脅かすものがあるのなら、見過ごすわけにはいかなかった。

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