金曜の夜まで、恒一は落ち着かなかった。診察中はいつも通りを装えたが、処方箋を書く指先にだけ、かすかな焦りが残る。浜風会館の名を聞くたび胸の奥が固くなるのに、記憶のない自分がそこへ向かうかもしれないと思うと、奇妙な安心まで混じった。信じていい相手が、自分の中にしかいないのは困る。 その日の最後の患者は、会館の清掃を請け負う会社で働く青年だった。軽い咳と目の痛みを訴え、恒一は問診の途中で顔を上げた。 「最近、刺激の強いものを吸いましたか」 「さあ。でも地下の搬入口、変なにおいがこもる日があって」 青年は言いにくそうに続けた。夜遅く、ラベルのない箱を運び込む車を何度か見たという。恒一は平静を保ちながら、必要な検査と吸入を指示した。診察が終わるころには、胸の中の疑いはほとんど確信に変わっていた。 帰宅すると、例の鍵を机に置き、手帳を開いた。今夜、もしまた記憶が途切れるなら、せめて昼の自分にもわかる形で残してほしい。そう書いてから、恒一はふと笑ってしまった。自分へ依頼文を書く生活など、どこの喜劇だろう。 目覚めたのは夜明け前だった。ベッドではなく、居間の床で、靴を履いたまま。黒い帽子はソファの肘にかかり、手帳には新しい走り書きが残っている。 地下は当たり。鍵で開いた。帳簿の写真あり、封筒の中。来客に気をつけろ。見張り役は鼻歌が下手。 恒一は封筒を開き、息をのんだ。写真には会館地下の棚、積まれた容器、改ざんされた日付の帳簿が写っている。素人仕事とは思えないほど要点が押さえられていて、悔しいが頼もしい。最後の一文だけは、緊張をほどくための悪ふざけに見えた。 その日、匿名通報が入ったらしく、午前のうちに役所の車が浜風会館へ向かったという話が病院にも届いた。ところが昼過ぎ、神崎が珍しく真顔で診察室へ入ってきた。 「白野先生、昨日の夜どこにいた?」 「質問が急ですね」 「会館の近くで、黒い帽子の人を見たって話がある。そのあと裏口から関係者が一人逃げて、まだ捕まってない」 恒一は聴診器を握る手に力を入れた。証拠は押さえた。だが、まだ終わっていない。 「私が黒い帽子を似合わないことだけは保証します」 「そこは否定が雑だな」 神崎はため息をつきつつも、それ以上は追及しなかった。ただ帰り際に、小さな栄養ドリンクを机に置く。 「今夜はせめて、どっちの白野先生も無茶しないで」 恒一はその言葉に引っかかった。どっちの、と冗談めかして言われただけなのに、胸の奥で何かが静かに揺れる。周囲はまだ気づいていない。けれど、昼の自分が追う先に、夜の自分ももう立っている。そんな予感が、夕暮れの窓に濃く差していた。
白衣の朝、月影は街を診る
全年齢小説ID: cmneicfpj000g01rvmtlfy88x
