綾香は病院を出て少し歩いた先のカフェで、窓際の席を見つけて立ち止まった。予約していた睡眠外来の専門医が来るはずで、時計を気にしながらメニューにも手を伸ばせない。外の通りには帰宅を急ぐ人の流れがあり、店内だけが妙に静かだった。 「遅れてるだけ、ですよね……」 誰に言うでもなく呟いた瞬間、スマホが震えた。画面には短い通知だけが浮かんでいる。予約が変更されました。 「え?」 綾香は何度も見直した。自分が操作した覚えはない。病院で確かに待ち合わせを決めたはずなのに、時間も相手も、するりと手の中から抜け落ちたみたいだった。 そのとき、テーブルの端に見慣れないボトルが置かれているのに気づく。艶のある高級な栄養ドリンクで、ラベルまで妙に上品だった。隣には折りたたまれた紙切れ。 「……誰が」 指先で開いたメモには、たった一行だけ書かれていた。 今は眠るな。まだ片づいていない 綾香は息を止めた。活字ではなく、急いで書いたような筆跡なのに、妙に整っている。誰かが自分を見ている気配がしたが、振り向いても知らない客がカップを傾けるばかりで、こちらを見返す者はいない。 「片づいていないって、何が……」 つぶやいた声は、カップの中へ落ちて消えた。睡眠外来の専門医が来ない理由も、このドリンクの意味もわからない。それでも、メモを握る手だけが自然と強くなる。 綾香は栄養ドリンクを持ち上げ、しばらく眺めた。飲めば少しは楽になるのだろう。けれど、今はそれが単なる差し入れに思えなかった。 「眠るな、か……」 誰の命令なのかはわからない。ただ、昼の自分が知らないところで、夜の誰かがまだ動いている。その事実だけが、夕方のカフェのぬるい空気に、ひやりとした輪郭を与えていた。
白衣の朝、月影は街を診る
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