エラベノベル堂

白衣の朝、月影は街を診る

全年齢

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5章 / 全10

その夜、恒一は珍しく病院に残っていた。浜風会館の件が公になりかけた途端、今度は別の患者が同じような刺激臭と頭痛を訴え始めたからだ。しかも全員、港沿いの再開発地区で短期の仕事をしている。問診票の勤務先を並べると、ひとつの建設会社の名が何度も現れた。会館の地下は終点ではなく、もっと大きな流れの途中だった。 検査データを見つめながら、恒一は机の端に置かれた自分のメモに気づく。昼の自分で書いたはずなのに、最後の一行だけ筆圧が違った。  倉庫は港三号。月曜未明に動く。大きい魚はまだ網の外。  ぞくりとした。いつ書いたのか思い出せない。けれど内容は、昼の推理とぴたり重なる。港三号倉庫は、再開発地区の資材搬入口に隣接している。そこを使えば、医療廃棄物を建設資材に紛れ込ませて運ぶことも不可能ではない。そんなものが街の地中に埋められれば、何年もあとで住民の健康を蝕む。医師として見過ごせる話ではなかった。 月曜の未明を待つ前に、恒一はひとりで港へ向かった。夜を待たず、昼の自分の意思で。白衣の代わりに地味なコートを羽織り、診察鞄には聴診器ではなく、手袋と小型のペンライトを入れる。自分でもずいぶんな変わりようだと思ったが、足取りは妙に迷いがなかった。 港三号倉庫の近くまで来たとき、物陰でささやく声が聞こえた。 「やっぱり二人いるんじゃないか」 「昼は病院にいるのに、夜はあっちこっち嗅ぎ回るってさ」  漁協の若者らしい二人が、面白半分に噂している。女医が二人いる。町に広がり始めたその話が、急に現実味を帯びて胸に刺さった。恒一は息をひそめ、倉庫の脇へ回る。すると奥の扉のガラスに、一瞬だけ黒い帽子の影が映った。 先に来ている。夜の自分だ。 追いかけるように中へ滑り込むと、鼻をつく薬品臭がした。積まれた箱、偽装された伝票、奥で交わされる低い怒声。さらにその陰で、黒い帽子の人物が身軽に棚の間を移動している。恒一は思わず立ち尽くいた。鏡を見たわけでもないのに、あれが自分だとわかったからだ。背筋の伸ばし方も、苛立ったときの首の傾げ方も、どうしようもなく見覚えがある。 その瞬間、足元の金具を蹴ってしまった。甲高い音が倉庫に跳ね、男たちが一斉に振り向く。 「誰だ!」  懐中電灯の光が恒一を照らし、その横を別の影が駆け抜けた。黒い帽子の自分が、わざと大げさに箱を崩して注意を引く。男たちの視線がそちらへ流れ、恒一の胸に奇妙な確信が落ちた。逃がしている。守っている。 倉庫の壁際に追い詰められながら、恒一は震える手で携帯を握った。通報先の番号は、もう押してある。昼の知識で危険物の種類を見抜き、夜の自分が動線をつくる。別々に暴れていたと思っていた二人は、最初から同じ方角へ走っていたのだ。 外からサイレンの音が近づく。男たちが動揺したその隙に、黒い帽子の影が振り返った。暗がりの中で表情は見えないのに、なぜか笑った気がした。恒一もまた、息を切らしたまま、初めて自分の中のもう一人へ頷き返していた。

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