サイレンが港に反響し、倉庫の空気が一気に荒れた。男たちは出口へ散り、床にこぼれた伝票が靴に踏まれて舞う。恒一は壁際で息を整えながら、崩れた箱の表示を見た。表向きは塗料、だが中身は違う。刺激臭の原因になった溶剤と、処理記録の消された医療系の廃棄物が混ぜ込まれている。こんなものが再開発地区の地中に入れば、数年後にどんな形で住民に返ってくるかわからない。医師としての怒りが、恐怖を押しのけた。 黒い帽子の影は棚の上から男のひとりの進路を塞ぎ、身軽に反対側へ飛んだ。その動きに見とれそうになった次の瞬間、恒一は自分でも驚くほど冷静な声を出していた。 「その容器、倒さないで。揮発したら全員ただでは済みません!」 男たちが一瞬止まる。専門用語より、切迫した実感のある声のほうが効いた。そこへ駆けつけた警備員と警官が倉庫へなだれ込み、場はようやく押さえられた。 だが、帳簿だけでは足りなかった。背後にいる建設会社の幹部は、下請けに責任を押しつけて切り抜けるつもりらしい。翌日にはもう、町にそんな噂が流れていた。会館の件も港の件も、末端の暴走で片づけられる。恒一は外来の合間、再開発地区で働く患者たちの症状と勤務日、風向き、搬入時間を照合した。すると、体調不良が増える日には必ず同じ車両の出入りがあるとわかった。昼の彼女にしかできない、地道で逃げ場のない積み上げだった。 その夜、帰宅した机の上に短い紙切れがあった。 屋上に来る。話はあと。先に魚を釣る。 浜風に吹かれる病院の屋上で、恒一は誰もいない空を見上げた。返事はない。けれど不思議と、独りではなかった。翌朝、神崎に資料を渡し、保健所と記者に同時に回る形で情報提供の段取りを組む。正規の手順に、人目を引く匿名の証拠が噛み合えば、大きい魚も逃げ切れない。 会見の日、建設会社の幹部は余裕の笑みを浮かべていた。ところが質問が患者の健康被害と搬入記録の矛盾に及んだ瞬間、会場後方のスクリーンに港三号倉庫の写真が映し出される。誰かが事前にデータを送り込んでいたのだ。ざわめきの中、恒一は静かに立ち上がり、医師として確認した症状の推移と危険性を淡々と説明した。会場の視線が幹部へ集まり、笑みが崩れる。 窓の外では、夕方の町がいつもの顔で光っていた。けれど恒一の胸の中では、昼の理性と夜の足音が、初めてきれいに並んでいた。次に目を閉じても、もう前ほど怖くはない。たぶん今夜も、どちらかがどこかへ出かける。その行き先を、もう片方も知っている気がした。
白衣の朝、月影は街を診る
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