朝の空気はまだ少し冷たく、屋上庭園の植え込みには夜露の名残が光っていた。綾香は手すりのそばで息を整えながら、自分の中に昨夜の会話を反芻していた。リノは確かにいた。怖いだけの夢なら、ここまで心がざわつくはずがない。 「……完全には、受け入れられないけど」 小さく呟くと、頭の奥であの落ち着いた声が返ってくる気がした。 それでも、拒むより先に守られていた事実のほうが重かった。綾香は植木の葉先を指でなぞり、深く息を吐く。 「私、昼の自分しか知らないままじゃ、きっと何も見えない」 その瞬間、背後の扉がきしんだ。 振り向くより早く、昭太の息を呑む気配が届く。彼は立ち止まったまま、綾香の独り言を聞いてしまったらしい。 「……今の、誰と話してたんですか」 綾香は一拍遅れて目を瞬かせた。 「え」 「やっぱり。先生、秘密の協力者がいるんですね」 妙に真剣な顔で言われ、綾香は言葉を失った。誤解だと即座に否定したいのに、昨夜の記憶があまりに曖昧で、強く笑い飛ばすこともできない。 「協力者っていうか、そういう、複雑な事情が……」 「複雑な事情、ですか」 昭太はますます確信を深めた顔になる。どうやら彼の中では、綾香の周りに見えない味方がいて、夜のうちに何かを動かしていることになっているらしい。 そのやり取りを、少し離れた場所から見ていた男がいた。白い襟元の整ったスーツ姿で、病院の空気に似合わないほど落ち着いた足取りの人物だ。理事の一人、という噂だけは綾香も聞いたことがある。 「これは、ずいぶん賑やかだね」 男は笑みを浮かべたまま、庭園へ入ってきた。柔らかな物腰なのに、目だけが冷たい。 「綾香先生は、本当に患者さんからの評判がいい。実に助かっているよ。そういう人は、少しの雑音でも隠れやすいからね」 綾香の背筋がすっと強張る。 「……どういう意味ですか」 「そのままの意味だよ。信頼される人がいると、不都合なものも目立たなくなる。病院って、そういうものだろう?」 昭太が眉をひそめた。 「理事、それは」 だが男は昭太を見もしない。 「綾香先生が前面に立ってくれているおかげで、いろいろと都合がよかった。みんな、先生の笑顔を見れば安心する。安心すると、細かい確認をしなくなる」 綾香は言葉を失ったまま、手すりを握った。褒め言葉の形をしたその言い回しが、むしろ不正を包む布だったと理解する。 「私は、利用されていたんですか」 「利用なんて大げさだよ。少し借りていただけさ」 男は肩をすくめた。 その瞬間、綾香の胸の奥で、昨夜聞いた声が静かに背を押した気がした。昼の私は人を救う。夜の私は土台を守る。なら、今は黙っている場合じゃない。 綾香は顔を上げた。 「借りたつもりでも、返してもらいます」 昭太が目を見開く。理事の口元から、初めて笑みが薄れた。朝の光の下で、屋上庭園の空気だけが妙に張りつめていく。
白衣の朝、月影は街を診る
全年齢小説ID: cmneicfpj000g01rvmtlfy88x
