エラベノベル堂

白衣の朝、月影は街を診る

全年齢

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8章 / 全10

冷凍倉庫での摘発は、町に決定打を与えた。新聞は連日、再開発計画の闇を取り上げ、病院の待合でも市場でも、誰もが同じ話をしていた。だが恒一の胸には、晴れきらない雲が残っていた。押収された容器の量は多い。それでも患者たちの症状の広がり方と一致しない。まだ、どこかに源がある。しかもそれは、もっと人目につかない場所に隠されているはずだった。 その日、外来の最後にやって来たのは、再開発地区の設計事務所で働く若い女性だった。咳と微熱、倦怠感。ありふれた風邪にも見える。だが問診の途中で、彼女がぽつりと漏らした。 「この前から、地下駐車場の奥だけ変な甘いにおいがするんです。雨の日に強くて」  恒一は顔を上げた。設計事務所は、再開発の中核を担う白亜ビルに入っている。計画の資料も、人の出入りも、すべてそこへ集まる。これまで幹部たちが逃げ道を残してきた場所でもあった。 診察を終えたあと、恒一は机に向かい、患者の訴えを地図に落とした。港、会館、冷凍倉庫、そして白亜ビル。線を結ぶと、不自然なほどきれいに一本の流れになる。廃棄物の中継ではなく、帳簿そのものを操作する本拠地。証拠の終点はそこだ。 夕方、神崎が診察室の扉にもたれて言った。 「顔が、何か見つけた人の顔してる」 「褒め言葉ですか」 「半分は。残り半分は止めたい気持ち」  恒一は少しだけ笑った。止めたいのは自分でも同じだ。けれど、ここまで来て見ないふりはできない。神崎に患者の症状の推移と建物の位置関係を説明すると、彼は冗談を挟まずに聞き終えた。 「じゃあ今夜は、少なくとも一人じゃないように段取りする」 「ありがとう。でも」 「でも、勝手に行く顔だな」  見抜かれて、恒一は黙った。 夜、自宅の机にはすでに短い紙が置かれていた。  白亜ビル地下。帳簿も鍵も、たぶん最後。遅い。  最後の二文字に、思わず鼻で笑う。腹立たしいくらい息が合っている。恒一は黒い帽子を手に取り、しばらく見つめたあと、そっと被った。鏡の中の自分は、昼の医師でも夜の潜入者でもなく、その両方に見えた。 白亜ビルの地下駐車場は、雨上がりの湿気を吸ってひどく冷えていた。奥へ進むほど、たしかに甘いような薬品臭が混じる。人気のない倉庫区画には施錠された扉が並び、そのひとつだけが新しい。恒一はポケットの鍵束に指を触れた。なぜ持っているのか思い出せない鍵が、今夜に限って迷いなく当たりを教える。 錠が静かに外れた。中にはファイル棚と簡易金庫、そして見慣れた会社名の押された箱。帳簿、搬入記録、架空名義の処理契約書。積み重なった紙の量に、これまで町を騙してきた時間の長さが滲んでいた。恒一は震える手で写真を撮る。次の瞬間、背後で足音がした。 「やっぱり来たか」  振り返ると、会見で笑みを崩したあの幹部が立っていた。数人の男もいる。逃げ道は狭い。だが不思議と、恒一は一歩も退かなかった。胸の奥で、昼の冷静さと夜の大胆さがぴたりと重なる。 彼女は静かに携帯を掲げた。 「患者の症状、風向き、搬入記録、全部つながりました。もう隠せません」  男が顔をしかめて近づいた、そのとき。地下全体に非常灯が走り、どこかで警報が鳴り響いた。恒一は目を見開く。自分は何もしていない。なのに、いちばん効果的な混乱が起きている。物陰のガラスに、一瞬だけ黒い帽子の影が映った気がした。 周囲が騒然とする中、恒一は思わず息をのんだ。自分はここにいる。では、今あそこで笑ったのは、誰だ。

8章 / 全10

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