エラベノベル堂

零度の街で、まだ名のない鼓動

全年齢

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3章 / 全10

梅雨の切れ間の午後、二人は高円寺の裏通りを歩いていた。商店街のアーケードを抜けると、古びたレコード店からかすかな歌声が漏れ、軒先では鉢植えのミントが風に揺れていた。真琴は仕事の外回りの途中だと言いながら、今日は端末の通知をほとんど見ようとしなかった。蓮も、あえて何も聞かなかった。 店先のガチャガチャの前で、小さな子どもが空のカプセルを宝物みたいに握っているのを見て、真琴がふっと笑った。その笑いは一拍遅れて生まれた、整えられていないものだった。蓮はそれに気づき、胸の奥で何かがやわらかく灯るのを感じた。もちろん表示は0のままだったが、もうそれが自分の内側を否定しているようには思えなかった。 少し休もうかと入った喫茶店は、昔のまま時間が止まったような場所だった。木のテーブルには細かな傷が幾重にも走り、棚には使われなくなった小さなラジオが並んでいる。真琴はメニューを見ながら、こういう店、数値が低いって評価されそうですねと言った。効率が悪くて、接客も適度に不親切で、居心地だけが妙にいいから 蓮は笑った。真琴も笑い返した。そのあとで、彼女は少し視線を落とし、昨日また面談があったと話した。最近、数値の変動幅が不自然に小さい、自己最適化の痕跡が見られるかもしれない、と遠回しに告げられたらしい。すぐ処分になるわけではない。ただ、監視対象として記録は残る。 会社に必要なのは安定した人材のはずなのに、安定しすぎてても駄目なんです 真琴の声は静かだった。完璧すぎる波形は、作り物に見えるから。人間らしい揺れが必要なんだそうです。でも、その揺れまで求められると、もう何が本当か分からなくなる 蓮はカップの縁を見つめた。湯気の向こうで、真琴の顔が少しにじんで見える。 僕は逆です え 揺れてるのに、ないことになってる その言葉に、真琴はゆっくりとうなずいた。二人はしばらく黙っていた。沈黙は気まずくなく、雨上がりの水たまりのように、空をそのまま映していた。 店を出たあと、真琴は急に、海を見に行きたいですねと言った。東京湾でいいから、と付け足す声が、少しだけ幼く聞こえた。蓮は、いいですねと答えた。その返事だけで、どこか遠くへ行ける気がした。 夕方、別れ際の駅で、真琴の端末に社内通知が届いた。画面を見た彼女の顔から色が引く。感情管理アプリの大規模更新に伴い、過去の調整履歴および例外値の再検証を順次実施する、とある。対象者には追加の認証要請が送られます、と続く文字を、蓮も横から読んだ。 真琴は端末を握る指に力を込めた。蓮のほうにも、ほぼ同時に通知音が鳴る。画面には簡潔に、例外値保持者は精査対象です、と表示されていた。 雑踏のざわめきが一瞬だけ遠のいた気がした。行き交う人々の端末には、いつも通り色とりどりの数値が流れている。その中で、真琴は小さく息を吸い、吐いた。 来ましたね うん 怖いです 真琴は初めて、数値を整えようとしなかった。画面の波形が細かく乱れ、不安と混乱が正直に浮かび上がる。周囲の視線が何人かぶん刺さるのが分かった。それでも彼女は端末を伏せなかった。 蓮は自分の0の表示を見た。冷たいはずの数字が、今日は不思議と揺るがない足場のように思えた。 大丈夫とは言えないけど、と蓮は言った。一人じゃないです 真琴は目を見開き、それから少しだけ泣きそうな顔で笑った。整いすぎた社会の中で、その表情だけがひどくまっすぐだった。

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