エラベノベル堂

零度の街で、まだ名のない鼓動

全年齢

小説ID: cmneirb1x000701n3bl7cjibb

4章 / 全10

更新の告知が出てから、街の空気は目に見えない細い針を含んだようになった。通勤電車では、みなが端末を見下ろし、自分の推移履歴を指でなぞっている。駅構内の広告も、安心認証済みという文句ばかりが増えた。数値に守られてきたはずの人々が、その数値に怯え始めていた。 真琴は会社で、これまで以上に静かになった。いや、静かというより、余分な音を立てないように歩いているようだった。メッセージの文面は丁寧なままだが、句読点の位置にまで疲れがにじんでいる。蓮は夜、彼女の勤務先の近くまで迎えに行くことが増えた。並んで歩くあいだ、無理に励ますことはしない。コンビニで温かい肉まんを分け合い、信号待ちで向かいのビルの窓明かりを眺める。そんな時間のほうが、安い慰めの言葉より役に立つ気がした。 ある晩、真琴は川沿いのベンチに腰を下ろすなり、端末の自動補正を切った。画面の上で数値がゆっくりほどけていき、均一だった波形に小さな凹凸が生まれる。寒い日に張りつめていた水面へ、ようやく風が触れたみたいだった。 こんなことしたの、初めてかもしれません まずいんじゃないですか、と蓮は言いながら、止めなかった。 もう、何がまずいのか分からなくなってきました 真琴は笑おうとして、失敗した。その曖昧な口元が、蓮にはきれいに見えた。 私、ずっと、うまく生きるために数字を磨いてきたんです。角が立たないように、誰かに不快がられないように。でも最近、磨きすぎて、自分の顔まで薄くなった気がして 蓮は少し間を置いて、言った。 薄くなっても、消えてはないです 真琴は黙り、川面を見た。街灯の光が揺れて、砕けた金箔みたいに流れていく。 蓮さんは、不安じゃないんですか 不安です。就職もたぶん無理だし、この先、説明のつかないものとして扱われるかもしれない。でも、前よりはましです どうして 自分でも分からなかったものを、真琴さんが見つけてくれたから 言ったあとで、少し照れくさくなった。けれど真琴は茶化さなかった。代わりに、ひどく静かな顔でこちらを見た。その目には、数値の色ではなく、確かに揺れるものが宿っていた。 数日後、蓮のもとに最終面談取り消しの通知が届いた。理由は明記されていないが、例外値保持者の採用審査は保留という一文で十分だった。真琴もまた、追加認証の呼び出しを受けたらしい。昼休みに送られてきた短い文は、珍しく飾りがなかった。少し、こわいです、とだけ書かれていた。 蓮は、仕事帰りに会おうと返した。すぐには既読がつかなかったが、夜になって、お願いします、と届く。その二文字を見ただけで、蓮の胸はかすかに熱を持った。0の表示の下で、誰にも拾われないと思っていた感情が、確かに息をしていた。世界はまだ数字を信じきっている。けれどその外側で、測れないまま育っていくものがある。蓮は初めて、それを守りたいと思った。

4章 / 全10

TOPへ