エラベノベル堂

零度の街で、まだ名のない鼓動

全年齢

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5章 / 全10

追加認証の日、真琴は白い会議室から出てきたとき、ひどく疲れた顔をしていた。けれど端末には、抑制された平静の数値が薄く残っている。泣いたあとの窓ガラスに、まだ水滴が一つも見えないみたいな不自然さだった。蓮はビルの前で待っていて、彼女が見つけるより先に歩み寄った。 どうでしたか 真琴はすぐには答えず、通りの向こうに流れる車列を見た。 調整履歴は、かなり残ってました。警告で済むか、信用等級が下がるかは再判定待ちです。でも、それより そこで彼女は端末を差し出した。会社の検査ログの末尾に、参考資料として中枢システムの設計文書の一部が添付されていた。感情値の算出基準、社会適応性との相関、例外値の取り扱い。蓮は流し読みしかできなかったが、ひとつの文で目が止まった。 測定不能域は欠損として処理する。ただし周辺反応に高い共鳴性が見られる場合、別類型の感受特性を有する可能性あり。 これ、と真琴が言う。あなたのことかもしれない 蓮は画面を見つめた。欠損ではない。その言葉だけで、喉の奥がかすかに熱くなった。0は空白ではなく、既存の物差しが届かない場所にある値。切り捨てられていたのではなく、最初から欄がなかっただけなのかもしれない。 その夜、二人は真琴が教えられた場所へ向かった。更新精査で弾かれた人たちが、匿名で情報交換をしている地下の小さな集会室。雑居ビルの階段を下りると、消毒液と古い紙の匂いが混ざっていた。中には十人ほどいて、感情値の乱高下を理由に内定を取り消された学生、悲しみが長すぎると介護職を外された女性、幸福度が低いまま改善しないとして親権の審査で不利になった男がいた。 誰も大声では話さないのに、部屋は息苦しいほど満ちていた。長いあいだ数字の下敷きにされていた本音が、ようやく空気に触れているからだと蓮は思った。 真琴は最初、聞いているだけだった。だが、自分の番が来ると、端末を握ったまま口を開いた。 私は、好かれる数値を作ってきました。怖かったからです。うまくやれば守られると思ってた。でも守られてたのは私じゃなくて、見やすく整えた表示だけでした 声が震えた。以前ならその震えさえ補正していただろう。けれど真琴は止めなかった。 今は、嫌われるのも失うのも怖いです。でも、もう自分の気持ちまで編集したくない その言葉に、部屋の何人かが静かにうなずいた。蓮は隣で、胸の内に波が広がるのを感じた。相変わらず画面は0のままだったが、もうそれを虚しいとは思わない。真琴のむきだしの声に触れた瞬間、自分の感情は確かにここにあると分かったからだ。 帰り道、地上に出ると東京の夜景はいつも通り明るかった。どのビルの窓にも、数字を信じる生活が続いている。それでも真琴は少しだけ背筋を伸ばし、蓮を見た。 逃げるんじゃなくて、向き合いたいです 蓮はうなずく。冷たい風が吹き、街路樹の葉がさやりと鳴った。 僕もです。0の意味を、勝手に決めさせたくない 二人はそこで立ち止まり、同じ方角を見た。巨大な仕組みはまだびくともしない。けれど、数字の外に押し出されていた声は、もう聞こえ始めている。その小さなざわめきの中に、自分たちの進む道があるのだと、蓮は初めてはっきり感じていた。

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