宿帳に新しい名が並ぶたび、澪は文字の癖まで覚えるようになっていた。強くはねる払い、途中で迷ったように細くなる線。人は話す前から、もう少しだけ自分を漏らしている。 その夜、朝霧屋に泊まったのは四人だった。定年を過ぎた夫婦、大学時代の友人同士らしい二人連れ、そして一人で現れた壮年の男。表向きは何の共通点もない顔ぶれだったが、澪には妙に同じ湿り気を帯びて見えた。 夫婦は夕食の席で終始穏やかだった。だが夫が山菜に箸を伸ばすたび、妻は一拍遅れて湯飲みに口をつける。合わせているというより、ずらしていた。長く連れ添った者にしかできない、衝突を避けるための間だった。二人の部屋へ案内した仲居は、床の間に飾ったこの町の祭りの絵葉書を、奥さまが裏返していたと耳打ちした。 友人同士の二人連れは、賑やかなようでいて、片方ばかりが昔話をしていた。もう片方は笑いながらも、要所で話題を温泉街の地図に戻す。観光に来たようで、探しものをしている目だった。売店では古い絵はがきを何枚も見比べ、今は使われていない遊歩道の載った案内図だけを買っていった。 壮年の男は夕刻に着くなり、帳場の柱時計を見上げた。懐中時計でも持っていそうな所作だったが、実際に胸元から出したのは、角の擦れた小さな手帳だった。記念印でも集める旅人かと思ったものの、押されていたのは消えかけた日付印ではなく、温泉街の店の判子ばかりだった。廃業した菓子店、なくなった写真館、橋のたもとの玩具屋。今はもう町の地図から消えた名が並んでいる。 夜更け、露天風呂に最初に現れたのは夫婦だった。湯気は二筋に分かれ、やがて一枚の古い祭りの幕になった。提灯の列、濡れた石段、誰かを待つように握られたままの紙袋。夫は湯から上がると、濡れた髪のまま庭石を見つめていた。妻は何も言わず、ただ脱衣籠の端をきちんとそろえた。その仕草だけで、長いあいだ同じ話題を避けてきたのだと知れた。 次に入った二人連れの湯気には、川沿いの柳と、朱塗りの欄干が浮かんだ。だが今の温泉街にそんな橋はない。澪は胸の内で小さく息をのんだ。帳場の古い写真帳でしか見たことのない、二十年以上前に流された橋だ。片方の客が昼間から地図ばかり見ていた理由が、観光ではない形で輪郭を持ち始める。 最後に壮年の男が湯へ入ると、湯気はこれまでになくゆっくり、執拗に形を結んだ。朝霧屋の門前。今より若い女将衆。提灯を持って行き交う町の人々。そして一瞬だけ、先代女将によく似た後ろ姿が映る。男はそれを見上げたまま微動だにしなかった。 澪の背に冷えたものが走った。これまで現れた幻は、誰か一人の胸に沈んだ悔いの断片だった。けれど今夜のものは違う。個人の部屋の中ではなく、町の景色そのものが映っている。 男が上がってくると、澪は白湯を差し出した。彼は受け取る前に、静かに言った。 「若女将さん。この町の祭りは、いつから今の形になったんですか」 何気ない問いのはずなのに、澪には鍵穴へ差し込まれる細い刃のように聞こえた。彼の手帳の判子も、消えた橋も、裏返された祭りの絵葉書も、ばらばらではないのかもしれない。 帳場へ戻る廊下で、澪はふと気づく。ここしばらく湯気に現れていた後悔は、みな祭りの季節とどこかで結びついていた。送れなかった品も、届かなかった声も、開かれない封筒も。その中心に、朝霧屋自身があるのではないかという考えが、初めてはっきりと形を持った。
朝霧の湯、悔いは灯りへほどける
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