エラベノベル堂

朝霧の湯、悔いは灯りへほどける

全年齢

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5章 / 全10

澪はその夜、帳場を閉めたあとも帳簿を開くふりをして、先代が残した古い記録箱を膝元に引き寄せた。宿泊台帳、仕入れ帳、祭礼の寄進控え。どれも日付と名ばかりの紙束だが、指先で追っていくと、不自然な空白が一か所だけ続いていた。今から二十三年前、祭りの前後三日間だけ、別棟の利用記録がごっそり抜けている。露天風呂の現れる夜と同じく、理屈では説明できない欠落だった。 翌朝、澪は町内会長を務める菓子店の主人を訪ねた。手土産を渡し、祭りの飾りつけの話から遠回しに昔の橋のことを聞くと、主人は飴玉の瓶を拭く手を止めた。 「朱の橋が流された年か」 それだけ言って、あとは笑ってごまかした。しかし店の奥には、祭りの集合写真が一枚だけ裏向きに立てかけてあった。朝霧屋に戻る途中、澪は写真館の跡地、閉じた玩具屋の軒、川沿いの途切れた遊歩道を順に見ていく。常連客の手帳に押されていた判子の店ばかりだった。消えたものの並び方に、偶然ではない線が通っていた。 夜、例の壮年の男が再び露天へ向かった。常連だが、名は坂井としか名乗らない。朝霧屋に泊まるたび一泊だけで去り、必ず祭りの話題を一つ置いていく人だ。澪は少し遅れて庭先に立った。湯気は今夜、ひときわ濃く、まるで頁をめくるように場面を重ねた。 提灯で飾られた昔の温泉街。先代女将の凛とした横顔。川向こうから上がる歓声。次いで、激しい雨。誰かが何かを運び、誰かが橋の上で振り返る。そして最後に、朝霧屋の別棟へ駆け込む複数の影。その中心に、小さな箱を抱えた若い男がいた。顔は見えない。ただ、その箱の紐だけがやけに鮮やかだった。 澪は息をのんだ。これまでの客の後悔に繰り返し現れた紙袋、封筒、送りもの。皆、何かを渡せなかった形をしていた。もしかすると町の人々は、あの夜に渡されるはずだった何かを、それぞれ別のかたちで抱え続けているのではないか。 湯から上がった坂井は、白湯を受け取らずに言った。 「先代さんは、守ったんですよ。約束を」 澪は初めて問い返した。 「何の約束ですか」 坂井は庭の暗がりを見たまま、ゆっくり首を振る。 「誰か一人のためのものじゃなかった。だから、誰も全部を話せなかったんでしょう」 その言葉で、澪の中に散っていた断片が寄りはじめた。祭りの夜、町の誰かが朝霧屋で受け取るはずだったものがあった。だが雨か事故か、ある出来事でそれは果たされず、先代は真実を抱えたまま町の沈黙を守った。露天風呂が映してきた個々の悔いは、実はその夜からこぼれた雫だったのだ。 客たちは自分の人生に起きた後悔だと思ってここへ来る。けれど湯が見せていたのは、その人だけの傷ではない。遠い一夜に結び目を作られた、町ぐるみの言いそびれだった。 帳場へ戻った澪は、先代の鍵箱の底板がわずかに浮いているのに気づいた。爪を差し入れると、下から薄い包みが現れる。中には湿り気を吸った古い便箋が一通だけ入っていた。宛名はなく、本文もまだ読まないうちから、澪にはそれが露天風呂の現れる理由そのものへ通じる扉だとわかった。夜明け前の廊下で、朝霧屋は息をひそめ、次の一行を待っていた。

5章 / 全10

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