澪は夜明け前の帳場で、その便箋を両手にのせたまましばらく開けなかった。紙は古びているのに、折り目だけが妙にきれいだった。何度も読み返されたのではなく、読まれないまま守られてきた形だった。障子の向こうが白みはじめたころ、ようやく封をほどくと、現れた文字は先代の筆跡ではなかった。 祭りの晩、別棟の奥で会いましょう。箱は私が必ず渡します。町の名前ではなく、人の願いとして残したい。 短い文の下に、差出人の名はない。ただ日付だけが、別棟の記録が途切れていた二十三年前の祭り前夜を示していた。 箱。坂井の見た幻にあった小箱。渡されなかった何か。澪はその朝、朝餉の支度を仲居に任せ、自分は蔵の整理をすると言って別棟へ向かった。竹垣の内側は昼にはただの物置じみた空間だが、壁際の古い棚だけが不自然に新しい釘で打ち直されている。ひとつずつ器を退かし、板を押すと、奥に浅い空洞があった。 そこには木箱が一つ、布に包まれて眠っていた。紐の色は褪せていたが、湯気の中で鮮やかに見えたあの色の名残を残している。澪は胸の鼓動を押さえながら蓋を開けた。 中に入っていたのは、金銭でも宝でもなかった。温泉街の店々の名を書いた札、祭りの演目を書き込んだ紙、寄進の帳面の写し、橋の修繕願い、そして何枚もの手紙だった。どれも宛先はばらばらで、菓子店へ、写真館へ、玩具屋へ、町内会へ、朝霧屋へと続く。けれど文面の芯は一つだった。祭りを大きな観光の呼び物として売り出す計画が持ち上がるなかで、町の若い者たちが、金になる形ではなく、それぞれの店と人の記憶をつなぐ小さな祭りとして守りたいと願い、その約束を文にして残そうとしていたのだ。 あの箱は、町の未来を一つに決めるためのものだった。 だが祭りの夜、雨と橋の事故で、その場は失われた。誰かが悪かったとは言い切れない混乱のなかで、話し合いは立ち消えになり、店は少しずつ閉じ、人は気持ちの置き場をなくした。先代は箱を守ったが、出せば誰かを責める形にもなるから、しまい込むしかなかったのだろう。 澪はようやく気づいた。露天風呂が映していたのは後悔そのものではない。渡されるはずだった言葉の行き先だったのだ。家族へ渡せなかった菓子、親友へ送れなかった便り、舞台へ戻せなかった楽譜。皆、あの町の約束と同じ場所でつまずいていた。 夕刻、坂井が帳場に現れた。澪は箱の中の手紙を一通だけ見せた。坂井は目を閉じ、小さく息を吐く。 「私はあの時、運ぶ役でした。渡せなかった一人です」 澪は頷いた。 「今なら、渡し直せるかもしれません」 その夜、条件はそろっていないはずなのに、別棟の奥に湯の匂いが立った。
朝霧の湯、悔いは灯りへほどける
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