澪が別棟へ向かうと、竹垣の向こうには昨夜よりもはっきりした石畳が続いていた。月はまだ低く、空には薄雲がかかっている。雨上がりでもない。東の風も吹いていない。先代から聞かされた条件を一つひとつ胸の中で数えても、今夜はどう考えても足りなかった。それでも湯は、そこにあった。 丸い湯舟の湯気は静かではなく、誰かが頁を急いで繰るように、絶えず形を変えていた。坂井が足を踏み入れると、まず映ったのは二十三年前の朝霧屋の座敷だった。若い先代女将と町の者たちが円く座り、木箱を前に何かを話している。音はないのに、誰もが強い言葉を飲み込みながら、同じ方角を見ようとしていたことだけは伝わった。 次の瞬間、場面は川辺へ飛ぶ。祭りの提灯、濡れた石段、朱の橋へ駆ける影。箱を抱えた若者の後ろ姿。その肩を、先代が押すようにして別棟へ向かわせる。さらに湯気が割れ、澪は見た。橋の上で立ち尽くしていたのは一人ではなかった。誰かを待っていた人、何かを届けようとしていた人、引き返そうとした人。その小さなためらいが幾筋も重なり、町じゅうに細い糸のように散っていく。 それは事故の真相を暴く幻ではなかった。もっと曖昧で、だからこそ長く残るものだった。あの夜、誰も悪意で約束を壊したのではない。ただ皆、自分の役目だけで手いっぱいで、一番大事な一言を渡し損ねたのだ。待っていてくれ、後で行く、これを残そう、話を続けよう。そんな短い言葉たちが、渡る先を失って町に沈んだ。 澪の胸で、これまでの客たちの顔が一つにつながった。娘に菓子を渡せなかった男。親友への便りを書けなかった女性。舞台へ戻る一歩を止めていた青年。彼らの後悔は自分だけのものではなく、この町に染みこんだ言いそびれの水脈に触れていたのだ。 坂井が湯から上がると、珍しく真っすぐ澪を見た。 「先代さんは、隠したんじゃない。時間を預かったんですね」 澪は湯気の向こうに、先代の後ろ姿を見るような気がした。守るとは、閉じ込めることではない。誰かを責めずに渡し直せる日まで、形を崩さず持っていることだ。 そのとき、露天の入口で足音がした。今夜の宿泊客の一人、昼間に祭りの古写真を熱心に見ていた若い夫婦だった。迷い込んだように立ち尽くす二人の前で、湯気がふわりと開く。映ったのは知らない昔の橋ではなく、まだ幼い子どもの手をどう繋ぐかためらう、少し先の未来の食卓だった。夫婦は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑った。 澪はその光景に、答えを見た気がした。露天風呂が現れる理由は、果たせなかった約束を責めるためではない。渡しそびれた言葉が、次の誰かの口から今度こそ渡されるように、町が夜ごと湯を借りて待っているのだ。 帳場へ戻る廊下で、澪は木箱の重みを思い出していた。あれを明日にでも町へ突きつけることはできる。けれど先代が守ったのは、正しさより先に、人の顔を失わせない順番だったのだろう。ならば自分の役目も同じだ。秘密を暴くのではなく、誰かが自分の言葉で受け取り直せる場を整えること。 夜の終わり、別棟の湯気はいつもよりゆっくり薄れていった。消える間際、ほんの一瞬だけ、丸い湯舟の表面に木箱の紐がほどけるような波紋が走る。朝霧屋に結び目が戻りはじめている。澪は行灯の火を守るように手をかざし、次に来る夜を静かに待った。
朝霧の湯、悔いは灯りへほどける
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