祭りを三日後に控えた朝、澪は木箱を蔵へ戻さず、帳場の奥の小机に置いた。鍵はかけない。けれど誰の目にもあからさまには触れない場所にする。その加減こそが、今の朝霧屋に必要だと感じていた。 昼すぎ、町内会長の菓子店の主人が饅頭の箱を提げて現れた。続いて、廃業した写真館の娘だという女性、玩具屋の息子だったという無口な男、坂井も来た。誰も呼んでいないのに、示し合わせたように同じ時間へ集まってくる。澪は茶を出し、木箱を卓の中央へ置いた。 部屋の空気は重かったが、糾弾の匂いではなかった。古い火鉢の灰をそっと掘り返すような、静かな緊張だった。箱の中の手紙を一通ずつ読み上げるうち、店を守りたかった者、祭りを変えたくなかった者、逆に変えなければ町が痩せると焦っていた者、そのどれもが敵ではなく、ただ急ぎ方が違っていたのだとわかっていく。二十三年前の沈黙は、真実を隠すためではなく、誰か一人に責任の形を押しつけないための不器用な蓋だった。 その最中、菓子店の主人が低く言った。 「先代さんは、あの日のあと一人だけ来た相手がいた」 皆の視線が集まる。主人は湯飲みを置き、言葉を探した。 「箱を渡すはずだった若い男だ。橋の騒ぎのあと、夜明け前に朝霧屋へ戻ってきた。でも先代さんは会わなかった。会えなかったんじゃない。会わなかったんだ」 澪の胸が小さく波立つ。守るために預かったのだと思っていた先代が、自ら約束を止めた可能性。その違いはあまりに大きい。 坂井が苦い顔で続けた。 「その男は、町を出るつもりでした。箱の中身を渡したあと、温泉街を離れて、新しい土地で祭りの企画に関わる話があった。先代さんは知っていたんです。町の記憶を守るための約束が、町の人間を一人失わせるかもしれないことを」 澪は目を閉じた。先代は真実を伏せたのではなく、二つの正しさを天秤にかけ、片方を選んだのだ。町の未来か、一人の未来か。その夜、どちらを救っても後悔は残っただろう。 夕刻、条件のそろわぬ空の下で、別棟の湯はまた現れた。澪は一人で湯舟の前に立つ。湯気に浮かんだのは見知らぬ若い男の横顔ではなく、先代その人だった。凛としたまなざしの奥で、ただ一度だけ、ひどく弱い顔をしている。つづいて映ったのは、朝霧屋の門を出ていく背中。振り返らないその背に、先代は何も言えず、言わなかった。そこで幻は終わった。 澪はようやく知った。露天風呂が待ち続けていたのは、渡されなかった箱だけではない。引き留める言葉も、送り出す言葉も、どちらも言えなかった先代自身の後悔だったのだ。町じゅうの言いそびれの結び目は、朝霧屋から始まっていた。 湯気はすぐにほどけ、夜風が頬をなでた。責める気持ちは不思議と湧かなかった。先代もまた、誰かを守ろうとして選び損ねた一人にすぎない。その不完全さが、今の客たちの後悔とまっすぐつながっている。 澪は湯に向かって、初めて小さく頭を下げた。 「預かります。今度は、止めないために」 その瞬間、湯面に丸い波紋が広がり、まるで誰かが静かに頷いたように見えた。
朝霧の湯、悔いは灯りへほどける
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