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灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ

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3章 / 全10

朔日の夜、深川は川風が冷たく、蔵の白壁が月のない空にぼんやり浮いていた。透真は庄兵衛の手代という顔で裏口から入り、肩にかついだ小箱を土間へ下ろした。中身は上等な香木ではなく、長さと重さを揃えた木片と、焚いた後の癖を見分けるための灰である。玲甫は少し遅れて現れ、どこかの名家に雇われた見立て役として座を得た。互いに言葉は交わさなかったが、視線が一度合えば足りた。 蔵の奥には、帳場机を囲むようにして五人の香術師と三人の商人がいた。表向きは材の見分けと値踏みの会だが、並ぶ品の数が妙に少ない。代わりに、帳面と小さな香炉が人数分より多く置かれていた。透真は荷を運ぶふりをしながら、炉の位置を覚えていく。入口に近いものは煙が右へ流れ、奥の二つは天井の梁に当たって滞る。その違いを知ったうえで香を焚けば、座る者ごとに受ける印象を変えられる。師が生前よく言った、場そのものを調える技である。 やがて会が始まると、一人の商人が薄い帳面を開き、香木の名を読み上げた。羅国、真南蛮、寸聞多羅。だが数と値が噛み合わない。上物が少なすぎるのに、相場だけが不自然に高く記されている。さらに、その名の区切り方が宗玄の冊子と同じだった。材名は品ではなく、日取りと場所を指す符丁。透真は胸の内でひとつ頷く。やはりあれは、寄り合いの記録だ。 席の途中で試し香が回った。皆が目を閉じ、香りの由来を口にする。透真には当然わからない。だが一人、答える前に必ず親指で膝を二度叩く男がいた。その癖は浅草の席で見たものと同じだ。合図を送る癖。しかもその男が答えるたび、帳場の商人が筆を置いて頷く。香合わせの遊びに見せかけ、実際には値の申し合わせを確認しているのだ。 「外れたな」 不意に声が落ちた。清胤である。いつのまにか最奥に座し、静かな目でひとりの若い香術師を見ていた。若者は額に汗をにじませ、言い直そうとして言葉を詰まらせる。すると清胤は穏やかに笑い、別の香炉を差し出した。その笑みは柔らかいのに、蔵の空気だけが硬く締まった。透真はそこで気づいた。ここでは腕前を競っているのではない。従う者と、切り捨てる者を選んでいる。 宗玄も、この場で何かを見たのだろう。だから香譜に隠した。証を残し、誰かが読み解くのを待った。 会の終わり際、透真は下げられた香炉の灰を布に受けた。表面はなめらかでも、底にだけ細かな割れが走っている。香を急に強めた証拠だった。場の空気を押し、判断を鈍らせるための焚き方。鼻ではなく灰が告げる不自然さに、透真の背が冷える。玲甫も帰り際、何気なく袖で机を払って帳面の端をのぞき込み、蔵を出たあと低く言った。 「次は公の席だ。こいつら、春の大寄合で一気に値を動かすつもりだぞ」 川縁を歩きながら、透真は懐の写しと、布に包んだ灰の重みを確かめた。月のない夜の水面は黒く、遠くの舟灯りだけが揺れている。相手の輪郭は見えてきた。だがその中心にいるのが清胤なのか、それともさらに奥に別の手があるのか、まだ断じるには早い。足を止めた透真の横で、玲甫が珍しく真面目な声を出した。 「嗅げぬお前のほうが、よほどよく見ている」 透真は答えず、闇の向こうを見た。宗玄の残したものは恨みではない。歪められた香の道を、元に戻せという静かな命だ。その重さが、ようやく形を持って胸に落ちてきていた。

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