春の大寄合を三日後に控え、透真は宗玄の離れに人を集めた。清胤の旧友として事情を知る老香術師の佐伯玄路、荷の流れを読む庄兵衛、そして玲甫。狭い座敷に並んだ顔ぶれは奇妙だったが、宗玄が残した冊子を机に広げると、誰も冗談を言わなくなった。 透真は頁を順に追いながら、香材の名の並びと、月齢の印、崩した町名を書き写した紙を脇に置いた。 「配合に見せてあるが、これは寄り合いの日時と場所だ。しかも一度きりじゃない。同じ組み合わせが、荷の入りと評判の立つ時期に合わせて繰り返されている」 庄兵衛が帳面を開き、玄路が指を折って数える。上等とされた香木が市に出る前、必ず内々の品定めがあり、その後で噂が流れ、値が吊り上がる。香りの善し悪しではなく、誰がそう言ったかで相場が決まっていた。 「宗玄殿は、それを止めようとしたのでしょうな」 玄路の声はかすれていた。 「あの人は名より道を取るお方だった」 玲甫は柱に凭れ、目を伏せたまま言う。 「だが証はまだ弱い。帳面も灰も、不自然さは示せても、奴らは言い逃れる」 透真もそこは承知していた。だからこそ、ただ暴くのでなく、公の席で誰の目にも見える綻びを作る必要がある。香術は鼻のよい者だけの芸ではない。場をどう組み、どう人の記憶を動かすか、その設計まで含めて技なのだと、宗玄は教えた。 透真は立ちのぼるはずの煙を思い描きながら、炉の配置を紙の上に記した。大寄合の会場は上野の寮屋敷。南の障子際は風が抜け、西の床脇は煙が残る。例年どおりなら、清胤ら上位の香術師は上座に近い炉を使う。もし彼らがいつものように場を支配する焚き方を選べば、煙はある一角にだけ濃く滞るはずだった。 「その偏りを見せるのか」 玲甫が問う。 「いや、見せるだけでは足りない」 透真は宗玄の冊子の最後の頁を開いた。そこだけ筆致が乱れ、香材の名の横に小さく二文字、返しとあった。 「師匠は知っていた。相手の焚き方は、人の判断を鈍らせる。その流れを逆に使えば、隠した癖が表に出る」 玄路が顔を上げる。 「返し香か。古い手だが、今は使う者がおらん」 返し香。それは先に置かれた香の余韻と、後から焚く香の軽重をぶつけ、場に残った印象を浮かび上がらせる技である。露骨に争えば品を損ねるため、今では廃れた。しかし静かな対決には、これ以上ない。 透真は己の鼻が何も告げないことを、もはや欠落とだけは思わなかった。煙の曲がる角度、灰の裂け方、黙った人間が息をつく間。香りの届いた先に起こる変化なら、自分はまだ読める。 その夜更け、皆が帰ったあとで、透真はひとり香炉の灰をならした。宗玄が生きていたころ、何度も見た手つきが指に残っている。失ったものは戻らない。それでも、失ったからこそ見える筋道がある。 庭の木立が風に鳴る。透真は冊子を閉じ、静かに目を上げた。春の大寄合では、香木の値だけでなく、人の顔も、積み上げた評判も動く。だが逃がしはしない。師の遺した暗号も、深川で集めた灰も、まだ声を持たぬ証も、あの場でひとつの形にしてみせる。そう定めたとき、沈黙した世界のどこかで、見えない煙がまっすぐ立った気がした。
灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ
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