エラベノベル堂

灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ

全年齢

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5章 / 全10

大寄合の前日、透真は朝から会場の寮屋敷へ入った。道具方として炉を改め、灰をふるい、炭の座りを見る。その地味な仕事の合間に、彼は座敷の癖をひとつずつ確かめていった。南の障子際は風が細く抜ける。西の床脇は煙が沈みやすい。廊下から人が出入りするたび、上座近くの気流だけがわずかに乱れる。清胤ほどの使い手なら、その揺らぎまで読み込んで焚くだろう。ならば、その読みを逆に踏むだけだ。 昼過ぎ、玲甫が何食わぬ顔で現れた。手には自前の香炉ではなく、古びた灰匙が一本だけある。 「庄兵衛から荷の話を聞いた。明日の寄合に出るはずの羅国が、今朝ひそかに別の蔵へ回されたそうだ。上物が足りぬ穴埋めに、質の落ちる材を混ぜる気だろう」 透真はうなずいた。評判を先に作り、品は後から合わせる。香術の名を借りた商いの手口としては、あまりに出来すぎている。 「清胤だけの知恵ではないな」 「だが中心にいる。少なくとも、誰を勝たせ、誰に口をつぐませるかを決めているのはあの男だ」 夕刻、玄路が密かに持ち込んだ古文書から、さらにひとつ事実が見えた。宗玄が亡くなる半年前、香術師たちの評定で、流通の不正をただそうという提案が一度だけ出ていた。名を伏せた建言だったが、筆跡の癖は宗玄のものと一致した。そしてその評定の後から、宗玄は急に公の席を避けるようになっている。病に伏したからではない。切り離されたのだ。静かに、しかし確実に。 夜、透真は会場の隅で試しの焚き方を繰り返した。香りはわからぬ。それでも灰の締まり方で、火の強弱は読める。煙のたゆたいで、場の重さも測れる。宗玄の言葉が胸に蘇った。香は鼻に届く前に、置かれた場所の理を選ぶ。人は香りそのものに動かされるのではない。その場で思い出した記憶に、己で足を取られるのだと。 透真は返し香の順を決めた。先に相手の焚き方を生かし、残った余韻に、ごく淡い調えを重ねる。強く押し返すのではない。むしろ静かに道をつくり、偏った焚き方だけが不自然に浮くようにする。もし清胤がいつもどおり人の判断を曇らせる火加減を選べば、その一角だけ灰は早く痩せ、煙は壁際に沈む。見抜ける者には見える。見抜けぬ者にも、なぜか居心地の悪さだけは残る。そこへ証言と帳面を重ねればよい。 支度を終えたころ、廊下の向こうで衣擦れがした。振り向くと、灯の外に清胤が立っていた。 「まだ、この道に未練があるか」 穏やかな声だった。だが透真は、その静けさの底にあるものをようやく見た。哀れみでも敵意でもない。選別する者の目だ。 「未練ではありません」 透真は灰匙を置いた。 「戻すだけです」 清胤はわずかに目を細めた。 「宗玄殿も似たことを言った」 その一言で、透真の胸の奥に冷えたものが落ちた。やはり師匠は、この男に直接対したのだ。清胤はそれ以上何も言わず去ったが、足音は妙に軽かった。余裕か、あるいは明日こそ決着をつける覚悟か。 透真は誰もいなくなった座敷で、整えた炉を見渡した。香りのない世界は相変わらず沈黙している。けれど沈黙は、敗北ではない。見えぬものに名を与えるのが香術なら、自分にもまだ打つ手はある。明日、晴れの席で相手は己の技を誇るだろう。その誇りごと、綻びに変える。師の遺した香譜は、ようやく刃ではなく道筋として透真の手に収まりつつあった。

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