エラベノベル堂

灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ

全年齢

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6章 / 全10

翌朝、上野の寮屋敷には早くから人が詰めかけ、表門の外まで見物の足が絶えなかった。武家の使者、町方の旦那衆、名を売りたい若い香術師たち。春の光はやわらかいのに、座敷の内側だけが張りつめている。透真は道具方の位置に座し、最後の灰をならしながら、人の流れがつくる微かな風を読んだ。今日は誰もが香を聞きに来た顔をしている。だが実際には、誰がこの場を支配するのかを見届けに来ているのだ。 開席してほどなく、清胤が上座へ進んだ。淡い色の羽織に、無駄のない所作。視線を引くのに、ことさら力は要らないという顔だった。彼が炉の前に手を置いた瞬間、座は自然に静まる。透真はその静けさを見た。人は名声そのものにも反応する。香りが立つ前から、もう半ば勝負は始まっていた。 最初の数席は滞りなく進んだ。称賛の声も上がる。だが清胤の番になると、透真は袖の下で指を止めた。炭の置き方が深川で見た灰と同じだった。火を急に立たせ、香を場の一角へ沈ませる配置。南から抜ける風を計算し、西の床脇に余韻を溜めるつもりだ。おそらく、上座に近い者ほど深く印象づけ、遠い者には判断の曖昧さだけ残す。その揺らぎの中で、誰かが上物と口にすれば、評判は決まる。 煙は目に見えぬほど細い。それでも透真には、その行方がわかった。障子際でわずかに持ち上がった流れが、床脇で急に重く沈む。数人が同時にまばたきを減らし、ひとりの商人が無意識に背を預け直した。玲甫も気づいている。彼はわざと遅れて頷き、周囲の反応との差を際立たせた。 そこで透真は、用意していた返し香を静かに入れた。誰の目にも、道具方が灰を整える所作にしか見えないほどの、短い手つきだった。強くは押さない。ただ清胤の残した余韻の脇に、ごく淡い筋道を一本添える。すると場の偏りは消えず、むしろ不自然に浮いた。上座近くの者だけが落ち着きを失い、少し離れた席では逆に違和が際立つ。香がよいのか悪いのかでなく、なぜ一角だけ心地が重いのか、言葉にならぬざわめきが広がった。 清胤の目が初めて揺れた。 透真はその瞬間を逃さず、立ち上がった。 「亡き篠崎宗玄の遺した香譜について、皆様の前で申し上げたいことがあります」 ざわめきが止む。道具方が口を開く場ではない。だが既に座は、整いすぎた静けさを失っていた。 透真は冊子の写しを開き、香材に見せかけた文字列が、実は寄り合いの日時と蔵の符丁であること、荷帳の記載と一致すること、そして深川の会で灰に現れた不自然な火の強さが、今この場の焚き方と同じであることを示した。庄兵衛が進み出て荷の流れを証し、玄路が宗玄の建言について語る。玲甫は今日の炉の偏りを、公然と指摘した。 清胤はなお平静を装っていたが、座の誰もがもう先ほどの余韻に身を任せてはいなかった。透真はまっすぐ彼を見た。師の教えが胸の奥で静かに響く。香りは嗅ぐものだけではない。人の記憶と心を動かす設計そのものだ。ならば設計の歪みもまた、必ず人の前に姿を現す。透真はようやく、その確信を手の中に掴んでいた。

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