清胤が連れ出されたあとも、座はすぐには解けなかった。誰もが声を潜め、今しがた崩れたものの大きさを量りかねているようだった。透真は膝の上の冊子に手を置いたまま、老武家の顔を見ていた。勝ったとも、終わったとも思えない。むしろここから何か別のものが始まる、その気配だけがあった。 老武家はゆっくりと透真へ向き直った。 「篠崎宗玄の弟子、榊原透真。そなたに一つ、伏せてきたことを伝えねばならぬ」 その声には、先ほどまでの値踏みがなかった。透真は黙って待った。 「宗玄が遺した香譜は、不正の証であると同時に、もう一つの備えでもあった。あの者は、自分が退けば、いずれ香術の争いが表へ噴き出すと見ていた。だから清胤を止める証を残し、なおかつ、その後を継ぐ者を量ろうとしていた」 透真の指先がわずかに強張る。 「量る」 玄路が苦い顔で目を伏せた。庄兵衛も何かを知っていたらしく、口を結んでいる。玲甫だけが険しい目で老武家を見た。 「では、透真が嗅覚を失ったことも」 老武家は首を横に振った。 「それは宗玄の望んだことではない。だが偶然では済まぬ。あの日、席に出た香は、清胤の一派が持ち込んだものだった。心を鈍らせるために重ねた焚き方が、若い透真には強く当たりすぎた。宗玄はその責を、自分が見抜けなかった責として背負った」 透真の中で、三年前の冬が音もなく開いた。倒れる直前、師が人払いをしたこと。目を覚ましたあと、宗玄が何か言いかけて飲み込んだこと。その沈黙の意味が、今になって形を持つ。 「師匠は知っていたのか」 「半ばまでは」 玄路が絞るように言った。 「だが、おぬしに告げれば、おぬしは必ず追う。宗玄殿はそれを恐れたのだろう」 透真は冊子を開いた。最後の頁、乱れた筆の下に、これまで符丁としか見ていなかった小さな書き込みがある。光に傾けてようやく読めるほど薄い墨で、こうあった。 嗅ぐな、見よ。失うは門にすぎず。 胸の奥で何かが静かに崩れ、同時に据わった。師は不正を暴こうとしていただけではなかった。自分が失ったものの先に、別の道があると信じていたのだ。 そのとき玲甫が、珍しく柔らかな声で言った。 「ようやく、追いついたな」 透真は顔を上げた。座敷のあちこちで、若い香術師たちがこちらを見ている。その目には畏れよりも、確かめたいという色があった。香りを聞き分ける才ではなく、場を読み、人を見、技の心を戻す者を求める目だった。 老武家が扇を膝に置く。 「香術会所を改める。値と評判を一派に預ける形は終わりだ。宗玄が遺した望みを継ぐ者として、そなたに席を用意したい」 意外な結びだった。表舞台を退いた半端者に、かつて最も遠ざかった場所が差し出されている。だが透真は、すぐにはうなずかなかった。 庭先で春の風が木を鳴らす。香りは、やはりわからない。けれど煙の流れは見える。人が息を詰める間も、心がほどける沈黙もわかる。 「席をいただくかは、まだ決めません」 透真は静かに言った。 「ただ、教えることならできます。嗅ぐ者にも、嗅げぬ者にも同じように」 それは辞退にも、承諾にも聞こえた。だが宗玄の遺した道には、たぶんそれがいちばんふさわしい。玲甫が小さく笑い、玄路は深くうなずいた。 透真は冊子を懐へ収めると、ようやく前を見た。失ったものは戻らない。それでも門は一つではなかった。閉ざされたと思っていた先に、師が残した細い道がある。その先を歩く足の重さだけは、もう迷わず受け止められた。
灰にひそむ香譜、宵の記憶を継ぐ
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