エラベノベル堂

理科準備室に、失われた青の余燼

全年齢

小説ID: cmneiryh5000i01n35nyx2hrt

3章 / 全10

六月の雨は、朝霧中の古い校舎をいっそう深い色に変えた。濡れた渡り廊下を抜けて理科準備室に入ると、薬品と木の棚の匂いに混じって、最近はわずかに金属の冷たい匂いがするようになっていた。奏太が新しく組んだ装置のせいだと本人は言ったが、由良にはそれだけではない気がした。手帳を開くたび、部屋の空気そのものが耳を澄ませるように静まるのだ。 メモが見つかってから、篠崎は隠すことを少しやめた。とはいえ、何もかも話すわけではない。ただ、実験の前に必ず、体調と気分を確認するようになった。眠気はないか、不安は強くないか、昨日見た夢を覚えているか。理科の確認というより、どこか心の輪郭を測る問診に近かった。 「記憶に影響って、どういうことなんですか」 ある日の放課後、澪がノートを閉じて尋ねた。篠崎はしばらく窓の外の雨を見てから、言葉を選ぶように答えた。 「忘れていたことを思い出しやすくなる場合があります。逆に、今見ているものに昔の印象が重なることもある。危険というほどではなくても、気持ちが揺さぶられることはあるでしょう」 曖昧だが、嘘ではない答えだった。由良はそれ以上追及しなかった。先生が少しずつしか扉を開けられないのなら、こちらも少しずつ近づくしかないと思ったからだ。 実験は慎重に進んだ。光の結晶は、湿度の高い日にだけ輪郭をはっきり結ぶことがわかった。奏太は暗箱と可動式の鏡を作り、光の角度を一度ごとに固定できるようにした。澪は結果を日付順ではなく、月齢と気圧で並べ替え、手帳の古い記述との一致点を洗い出した。由良は現象の起きる順序に注目し、光、音、水の三つが単独ではなく、互いに呼び合うように変化していることに気づいた。 「これ、再現じゃなくて会話なんじゃない」 思わず口にすると、奏太が半田ごてを置いて顔を上げた。 「会話?」 「こっちが条件をそろえると、向こうが返してくる感じ。反応っていうより」 篠崎の目がわずかに見開かれた。それは正解を言い当てたときの顔に近かったが、次の瞬間には穏やかな教師の表情に戻っていた。 その仮説を確かめるため、四人は旧校舎の見取り図まで持ち出した。手帳に記された井戸、温室、北側の石碑。線で結ぶと、理科準備室がちょうど中心に近い位置へ来る。さらに、水面に浮かんだ模様を重ねると、校章よりも大きな円環が浮かび上がった。学校全体が、一つの大きな実験器具のようだった。 その夜、由良は奇妙な夢を見た。見たことのないはずの理科室で、まだ若い教師が結晶を窓辺に置き、誰かの名を呼んでいる。振り返った顔はぼやけていたのに、声だけがはっきり耳に残った。失くさないで。朝目が覚めても、その一言だけが胸の底に沈んでいた。 翌日、由良がその話をすると、澪も似たようなことがあったと打ち明けた。古い廊下を走る足音を、誰もいない朝に聞いたという。奏太は笑い飛ばそうとしたが、結局、自分も準備室で工具の名前が急に出てこなくなり、その代わりに知らない古い器具の呼び名が頭に浮かんだと白状した。 篠崎は黙って三人の話を聞き、やがて机の上に手を置いた。青い筋を宿した結晶が、雨のない部屋でかすかに濡れたような光を返す。 「ここから先は、僕も一緒に確かめます」 先生ではなく、僕と言ったのは初めてだった。由良はその小さな変化に、なぜか強い予感を覚えた。隠されていた秘密は、もう外側から眺めるだけのものではない。この学校に残った現象は、昔話の抜け殻ではなく、誰かが受け渡せずにいた思いそのものなのかもしれない。 雨脚が急に弱まり、準備室の窓に白い明るさが戻る。水を張ったトレーの表面に、誰も触れていないのに細い波紋がひとつ広がった。まるで、向こう側から返事が来たように。

3章 / 全10

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