エラベノベル堂

理科準備室に、失われた青の余燼

全年齢

小説ID: cmneiryh5000i01n35nyx2hrt

5章 / 全10

旧温室の鍵は、職員室の古びた引き出しに残っていた。篠崎が借用書に名前を書くあいだ、由良はその横顔を見ていた。いつもの穏やかさは消えていないのに、どこか決意だけが先に歩いているようだった。 放課後の校庭はまだ明るく、蝉の声が校舎の壁で跳ね返っていた。けれど旧温室の前に立つと、そこだけ季節が一枚薄くずれているように感じられる。曇ったガラスの向こうは緑の気配も乏しく、長く息を止めていた場所の静けさがあった。 錆びた鍵が回る音は、小さいのに妙に深く響いた。 中には壊れた棚と空の鉢、絡まった蔓の跡、ひびの入った散水用の桶。どれも放置された温室そのものだった。ただ、中央の床だけが不自然にきれいだった。丸く埃が薄い。誰かがそこだけ何度も見たか、触れたかしたように。 澪がしゃがみ込み、タイルの継ぎ目を指さした。 「ここ、浮いてます」 奏太が工具を差し込み、慎重に持ち上げると、床下に浅い空間が現れた。中にあったのは木箱ひとつ。理科準備室で見つけた箱より新しいが、それでも十分に古い。蓋を開けると、布に包まれた薄い金属板と、数枚の写真、そして封筒が入っていた。 封筒の宛名には、篠崎という姓があった。 篠崎の手が止まる。由良たちは息をひそめた。しばらくして彼は封を切り、便箋を開く。読み進めるうち、その表情から教師の仮面のような整い方が少しずつ剥がれていった。 「父の字ですか」 由良が小さく尋ねると、篠崎はうなずいた。 「いや……祖父です」 その一言に、空気がさらに静まった。手帳の持ち主。その先にいた人。篠崎は便箋を握りしめたまま、かすれた声で言った。 「古代魔法なんて大げさな名前で呼ばれたものは、力そのものじゃない。人が強く残した記憶の偏りを、場所が拾って現象に変えてしまうだけだって」 澪が金属板を光にかざす。表面には、理科準備室の記号に似た線が刻まれていた。すると温室の曇りガラスに、外の景色ではない影がにじんだ。白衣の若い教師、机を囲む生徒、笑い声のない口元だけの動き。写真でも映像でもない、思い出の湯気みたいな像だった。 由良の胸が詰まる。懐かしいはずのない光景なのに、失くしたものを返される瞬間みたいに苦しい。 「これが、記憶に影響するってこと……」 篠崎は頷いたが、視線は像の向こうに釘づけだった。 「父はこの現象で、母の記憶を追いかけ続けたんです。亡くなった人の声や仕草が、場所に残ることがあるから。だからやめられなかった」 温室の空気がわずかに震え、像の中の人影が一斉にこちらを向いた気がした。次の瞬間、外で風もないのに校舎の窓が連鎖して鳴った。遠くの水道が勝手にあふれ、廊下で誰かの足音が走る。学校全体が、眠りの浅い生き物みたいに反応し始めていた。 奏太が青ざめる。 「学校の外でも起きてるかもしれない」 由良は唇を噛んだ。取り戻せるなら知りたいと思っていた。昔の魔法の正体も、この町に残った声も。でも今目の前にあるのは、過去そのものではない。誰かが手放せなかった思いの残響だ。 篠崎は便箋を胸元で折り、静かに言った。 「復活させれば、もっと多くの記憶を呼べるかもしれない。でも、それは前に進むこととは違う」 温室のガラスに映る影が、ゆっくり滲んでいく。由良はその揺らぎを見つめながら、自分たちがいま選ばされているものの重さを、ようやくはっきり理解した。魔法を蘇らせるのか。それとも、失われたものに別の名前を与えて受け継ぐのか。もう、ただの実験では済まなかった。

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