エラベノベル堂

理科準備室に、失われた青の余燼

全年齢

小説ID: cmneiryh5000i01n35nyx2hrt

8章 / 全10

夏休み前の最後の週、朝霧中の理科準備室は、以前とはまるで別の場所になっていた。秘密を隠す部屋ではなく、秘密をほどいて言葉にする部屋だった。由良たちは新しい記録用紙を作り、題名を古代魔法の再現実験から、環境共鳴観測記録へと書き換えた。たったそれだけのことなのに、机の上の空気まで少し軽くなる。 「名前を変えると、見え方も変わるんだな」 奏太が照れくさそうに言うと、澪が小さくうなずいた。 「残すための名前なら、そのほうがいい」 篠崎はそのやり取りを聞きながら、青みを失った結晶を掌で転がしていた。もう特別な光は強くない。けれど完全なただの石にも戻っていないことを、四人とも知っていた。中に生まれた新しい筋は、過去の名残というより、これから記される線のように見えた。 町でも現象は落ち着き始めていた。閉店後の時計は鳴らなくなり、放送室の合唱も止んだ。けれど、消えたのは騒ぎだけだった。商店街の店主は、久しぶりに兄のことを話したと言い、川沿いの大学生は祖母の歌を忘れないうちに録音したと笑った。記憶は暴れなくなった代わりに、人の手で受け止められる形へ変わっていた。 終業式の日、篠崎は理科の授業で予定になかった話をした。フラスコも電池も使わず、黒板にひとつだけ、不思議と書く。 「説明できないことに出会ったとき、昔は魔法という名前をつけたのかもしれません。でも、名前は一つである必要はありません。観察して、考えて、誰かと確かめ合えば、不思議はこわさだけではなくなります」 教室は静かだったが、その静けさは遠ざけるものではなく、耳を傾けるためのものだった。 放課後、クラブの三人が準備室へ行くと、篠崎は古い手帳の隣に一冊の新品のノートを置いていた。表紙には、科学実験クラブ観測録とある。 「これを、続きにしてください」 由良がページをめくる。最初の行には、日付とともに短い一文があった。 継承開始。 その文字を見た瞬間、窓の外で風が鳴った。驚いて振り向いたが、そこにはただ、夏の光に揺れる校庭があるだけだ。ただ一つだけ、旧温室の曇ったガラスが、内側からそっと磨かれたみたいに澄んで見えた。 「先生は、この先もここにいるんですか」 由良が何気なく尋ねると、篠崎は少し考えてから笑った。 「少なくとも、案内が必要なあいだは」 曖昧なのに、不思議と十分な答えだった。最後の魔法使いという言葉は、もう誰の口にも上らない。その代わり、この町には別の呼び方が生まれようとしていた。記憶に触れる現象。人と場所が残すひびき。あるいは、まだ名前のない学び。 由良は新しいノートにペンを置き、最初の記録を書き始めた。現象は安定。観測者三名、顧問一名。異常なし。なお、結晶内部に新たな成長線を確認。 書き終えたところで、机の上の結晶が陽を受けて一瞬だけ光った。青ではない、透明な朝のような色だった。 それは失われた奇跡の復活ではなかった。けれど、だからこそ前を向いている。昔話に置いていかれたはずのものが、白衣とノートと放課後の笑い声の中で、静かに息を吹き返していた。

8章 / 全10

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