エラベノベル堂

理科準備室に、失われた青の余燼

全年齢

小説ID: cmneiryh5000i01n35nyx2hrt

9章 / 全10

夏休みが始まっても、科学実験クラブは週に二度だけ学校へ集まった。校舎は人気が少なく、蝉の声だけがやけに大きい。その静けさの中で行う観測は、授業のある日よりもはるかに敏感だった。誰もいない廊下を抜けて理科準備室に入るたび、由良は学校全体が眠っているのではなく、耳を澄ませているのだと思った。 新しいノートには、町の聞き取りと校内の観測結果が少しずつ積み上がっていった。現象は安定している。暴走もない。けれど、完全におだやかになったわけでもなかった。夕方になると、結晶の内部の新しい筋が、ごく薄く脈打つことがある。音の装置を切っていても、水面に短い螺旋が現れる日もあった。 「残り火みたいだね」 由良がそう言うと、篠崎は首を横に振った。 「火というより、芽に近いかもしれません」 その言い方が気になって、澪が記録の束をめくる。奏太も装置の配線図を見直し、学校の見取り図に新しい印を付けた。理科準備室でも温室でもない。反応がわずかに強い場所が、毎回少しずつ移動している。図に重ねると、その軌跡は校舎を出て、校門の先、町の図書館、公民館、川沿いの遊歩道へと伸びていた。 「学校から広がってるんじゃない」 澪が珍しく早口になる。 「人が話した場所に沿ってる」 その一言で、全員が気づいた。兄の話をした店主。祖母の歌を録音した大学生。説明会のあと、昔の友人について語り合った卒業生たち。現象が弱まったあと、この町では、忘れていた記憶を言葉にする人が増えていた。聞かれ、受け止められた思いが、今度は場所ではなく、人と人のあいだに薄く残り始めているのだ。 篠崎はしばらく黙っていたが、やがて机上の結晶を見つめたまま言った。 「昔の名残をほどいたつもりでした。でも、ほどけたものが消えるとは限らない」 「受け取られたから、形が変わったんですね」 由良の言葉に、篠崎は静かにうなずく。その横顔には驚きと、少しの安堵があった。最後の使い手として閉じる仕事をしに来た人が、いま見ているのは閉じた先の景色だ。 その日の帰り、四人は町の図書館へ向かった。夏の展示として、地域の古い写真や手記を集める小さな催しが始まっていた。入口には、思い出募集と書かれた紙が貼られている。中では小学生から年配の人までが、自分の知る昔話をカードに書いていた。特別な仕掛けはない。ただ誰かが話し、誰かが読み、残していく場所だ。 受付の女性が笑って言う。 「不思議なんです。この企画を出したの、急にみんな同じころに思いついたみたいで」 由良たちは顔を見合わせた。窓際の展示ケースに置かれたガラス片が、夕日を受けて一瞬だけ透明な朝の色に光る。学校の結晶と同じ色だった。 魔法を復活させるべきか、新しい形で受け継ぐべきか。その問いへの答えは、もう出ていたのかもしれない。受け継ぐのは装置ではなく、解こうとする姿勢だ。不思議に飲まれず、不思議を追い払わず、誰かの記憶に耳を澄ませること。 帰り道、篠崎がふいに立ち止まり、夕暮れの町を見渡した。 「案内人は、学校の中だけで足りると思っていました」 穏やかな声だったが、その先には新しい責任があった。由良は少し笑って、新品の観測録を胸に抱く。 「だったら、部活の活動範囲を広げましょう。学校の外にも、観測対象があるんですから」 蝉の声の向こうで、どこかの家の風鈴が鳴る。もう昔の残響ではない。いま生きている誰かの夏の音だ。そのささやかな響きに重なるように、結晶の入ったケースがごく小さく震えた。奇跡は戻らなかった。けれどその代わり、町じゅうの会話の中に、見えない灯りのように宿り始めていた。

9章 / 全10

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