ユウトは中枢鍵を握りしめたまま、旧研究棟の最奥へ進んだ。通路の壁には記憶の流通量を示す光が脈のように走り、都市そのものが誰かの意識でできているように見えた。母の治療停止通知が脳裏で冷たく点滅する。だが今さら引き返せば、リナが残した合図も、彼自身が失ってきた空白も、すべて本当に消える。そんな予感がした。 扉の先にあったのは、広い制御室だった。天井まで届く記録槽が並び、透明な容器の中で無数の断片が淡く揺れている。ユウトは息を呑んだ。あれは商品ではない。誰かの怒り、後悔、喜び、別れ。人が人であるための核そのものだ。中央の端末には、改ざん前の記録群が眠っていた。そこへ手を伸ばした瞬間、背後で声がした。 振り返ると、そこに立っていたのはリナだった。記憶の中の彼女より少し大人びた顔で、しかし目の奥の光だけは変わらない。ユウトは言葉を失う。彼女は静かに笑い、見つけるのが遅い、とだけ言った。リナは研究者の娘として施設に出入りし、記録の上書きから逃れるため、自分の痕跡を初恋の記憶に紛れ込ませていたのだという。偶然の再会ではなく、未来へ渡すための封印だった。 彼女は端末を示した。ここにある公開用の鍵を使えば、都市の全端末へ改ざん前の記録を流せる。ただし、接続した者の深部記憶は巻き込まれ、何が残るかわからない。ユウトは母の顔を思い浮かべた。生きてほしいと願った時間が、何度も手からこぼれていく。けれど、誰かの治療のために他人の人生を削る仕組みを、これ以上受け入れることはできなかった。 彼はうなずき、接続を開始した。瞬間、記録槽が一斉に開き、光の奔流が都市へ走る。広場、病院、住宅街、あらゆる画面に隠された記録が解き放たれていく。人々は立ち止まり、忘れていた名前を口にし、奪われていた怒りに震えた。制御室は警報で満ちたが、もう遅かった。 視界が白く滲む中で、ユウトはリナの手を確かに掴んだ。もう細部は崩れ始めていた。それでも最後に残ったのは、あの午後に誰かを好きだと知った熱だけだった。遠くで母の呼ぶ声がした気がする。彼は壊れかけた記憶の底で微笑み、これが自分の選んだ痛みだと理解する。都市は揺れながら目を覚まし、ユウトは何もかもを失いきる前に、初めて自分の足で真実の朝へ踏み出した。
記憶市場の果て、初恋は真実を灯す
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