ユウトが中枢鍵を差し込むと、制御室の床が低く震えた。透明な記録槽から白い光がほどけ、都市中の端末へ向かって一斉に走り出す。広場の巨大画面、病院の待合、家庭の壁面。どこかで誰かが息を呑む気配が、通信の波に混じって届いた。隠されていた改ざん前の記録が、雨のように降り始めている。 だがユウトの視界はすでに滲んでいた。接続の代償が、記憶の棚をひとつずつ空にしていく。リナの横顔、母の背中、初恋に触れた午後の熱。輪郭は崩れ、名前だけが遠ざかる。それでも彼は離さなかった。これが最後だと、どこかで理解していたからだ。 背後で警報が消えた。代わりに、か細い拍手のような音がした。振り向くと、制御室の外に人が集まり始めている。守衛でも職員でもない。売られた記憶を持つ市民たちだった。涙を流している者、呆然と天を仰ぐ者、震える手で誰かの名を呼ぶ者。失くしたはずの感情が、封を切られたみたいにあふれていた。 その先頭に、母がいた。病院の白い服を羽織り、足取りは頼りないのに、目だけはまっすぐだった。ユウトは息を呑む。母は微笑んだ。もう治療は受けないと、自分で決めたのだという。制度が回収していたのは病そのものではなく、人が何を大切にしてきたかを示す証だった。だからこそ、返してもらわなければならないのだと。 ユウトは言葉を失った。自分が守ろうとしていたものは、思っていた形とは違っていたのかもしれない。そこへリナが歩み寄る。彼女はもう、記憶の中の曖昧な影ではない。痩せた頬に疲れを残しながら、それでも確かにここにいた。彼女は静かに告げた。初恋の記憶は囮だった。けれど、そこに本当にあった気持ちまで偽物にはできなかった、と。 ユウトの胸に、遅れて痛みが灯る。買い戻した記憶の細部は、もうほとんど砂のように崩れていた。だが不思議と怖くなかった。都市が真実を受け止め始めた今、何を失ったかより、何を残してきたかのほうが大切に思えた。 そのとき、制御室の奥でひとつの保存槽が開いた。中から現れたのは、改ざん前の本人記録ではない。ユウト自身の、まだ売られていないはずの幼い記憶だった。そこには、母でもリナでもない、見知らぬ少年と笑い合う自分がいる。かつて失われたと思っていた初恋の相手は、実はリナではなく、その少年だった。画面越しにしか思い出せないはずの顔が、今まさに目の前で息をしている。 ユウトは呆然と立ち尽くした。リナが小さく笑う。ようやく思い出したね、と。都市を揺らした真実は、記憶改ざんの暴露だけでは終わらない。最初からユウトを導いていたのは、初恋の少女ではなく、彼自身の別の過去だった。制御室に沈む朝の光の中で、ユウトは自分の物語が、まだ終わっていなかったことを知った。
記憶市場の果て、初恋は真実を灯す
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