春が近いはずなのに、深夜の路地にはまだ冬の名残が貼りついていた。真帆はコートの襟を寄せながら店に入った。自動ドアの向こうは、相変わらず現実より半歩だけ静かだ。青年はいつもの場所にいたが、その夜はいつもより少しだけ顔色が薄く見えた。灯りに溶けかけているような、そんな頼りなさがあった。 真帆は温かい緑茶のペットボトルを手に取り、レジへ向かった。画面に出たのは、まだ言葉になっていない再出発。以前なら身構えていたはずの表示に、今はただ息をつく。 「ずいぶん先回りしますね」 と言うと、青年は緑茶を見て、 「熱いものは、少し冷ましてからのほうが喉を通ります」 と答えた。 その夜、店には立て続けに客が来た。くたびれたトレンチコートの男は履歴書用の写真を入れる封筒を買い、画面に遅れて出した願書と出されて苦く笑った。青年はコピー用紙の棚を見やり、 「折り目がついても、読める字なら届きます」 とだけ言った。男は何も言わず、封筒を胸ポケットにしまって帰っていった。 次に来たのは、髪をひとつに結んだ年配の女性だった。小さな子ども用の靴下を握りしめ、表示された孫に聞けなかった昔話を見て、しばらく動かなかった。青年は靴下の柔らかい布地を見ながら、 「小さいものほど、手渡しのほうが覚えてもらえます」 と言った。女性は目を伏せてうなずき、店を出るときには少し背中が伸びていた。 真帆はそれを見ながら、青年の言葉がいつも品物の縁をなぞるようにして相手の心に触れることに、あらためて気づいていた。正解を言わないのは、知らないからではない。きっと、自分で選んだ一歩だけが朝まで残ると知っているからだ。 「あなたは、誰かにそうしてもらったことがあるんですか」 客が途切れた隙に、真帆はそう尋ねた。青年の指先がレジ台の縁で止まる。 「ありますよ」 思ったより素直な返事だった。 「この店で?」 青年は少しだけ笑った。 「昔、客でした」 真帆は瞬きを忘れた。予感はあったのに、言葉になると重みが違う。青年は棚の向こうへ視線を流し、続けた。 「僕も、値札を見て立ち尽くしたひとりです。何を買っても、逃げた言い訳ばかり出てきて」 「それで、ここに残ったんですか」 「残った、というより、預かったのかもしれません」 その言い方が妙に胸に残った。店を、ではない。夜を、誰かの迷いを、あるいは決められなかった時間そのものを預かっているようだった。 真帆は棚からチョコレートを一つ取り、もう一度レジに置いた。表示は、知りたくなった他人の痛み。青年はそれを見ても驚かない。ただ小さく息をついて、 「甘いものは、疲れているときほど中身を急いで知りたくなります」 と言った。 その声音は穏やかなのに、どこかで終わりを知っている人の静けさが混じっていた。真帆は店内を見回す。整いすぎた棚、生活の薄い空気、夜更けなのに古びない灯り。ふいに、ここが永遠ではないのだと理解した。次の春が来たら、この場所は消えてしまうのではないかと、根拠もなく思った。 帰り際、青年はレシートの代わりに短い言葉を落とした。 「朝は、急に来ますから」 真帆は振り返った。 「あなたの朝も?」 青年は答えず、いつものように静かに微笑んだ。その笑みの奥に、まだ開けられていない自分自身のレジがあることを、真帆ははっきり感じていた。
未明の値札に、ほどける人生
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