エラベノベル堂

未明の値札に、ほどける人生

全年齢

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4章 / 全10

櫂が見守るなか、会社員の男はスープの紙カップをそっと置いた。しばらく迷っていた指が、やがて震える手つきでポケットを探る。取り出したのは、くしゃりと握られたスマートフォンだった。 「……かけます」 「おう」 櫂は短く返しただけで、視線を外した。背中を押すほど立派な言葉は出ない。ただ、ここで逃げないでいられる空気だけは、崩したくなかった。 男は画面を見つめ、深く息を吸う。すぐには押せない。親指が宙で止まり、喉仏が上下する。その沈黙のあいだ、レジの表示板に浮かんでいた文字が、さっきより薄く揺れた。言えなかった一言。その輪郭が、紙の上のインクみたいににじんでいく。 「……出ないかもしれないです」 「出なくても、かけるだけで違うこともある」 「そんな無責任な」 「無責任で結構。今のあんたに必要なのは、正しい順番じゃなくて、最初の一回だ」 男は小さく笑った。笑い方はまだ硬いのに、さっきまで胸を塞いでいた重りが少しだけずれたように見えた。 そして、通話の音が鳴る。 櫂はわざと遠くを見るふりをした。店の外へ目を向けると、自販機の白い光が夜気に滲んでいる。男は少しだけ肩をすくめ、通話口に口を寄せた。 「……もしもし。今、外にいる」 途切れた声の向こうで、相手が何かを言っているのだろう。男は何度かうなずき、それから言葉を探すみたいに唇を噛んだ。 「ごめん。連絡、遅くなった」 短い謝罪だった。けれど、その一言だけで十分に息が変わる。 「うん……うん、今は大丈夫。ちゃんと帰る」 櫂は店内から出て、無言で自販機脇の少し離れた場所に立った。近づきすぎないほうがいいと、なぜか分かった。男の声は小さいままだったが、さっきより確かに誰かへ届いている。 「今まで、心配かけた。……うん、わかってる。あとで話す」 通話が終わるまでの数分が、やけに長く感じられる。やがて男がスマートフォンを下ろしたとき、肩の力はまだ残っていたものの、目の奥は少し軽くなっていた。 「……できました」 「そうか」 「たったそれだけ、なんですけど」 「それだけじゃない」 櫂は自販機の側面に映る自分たちの影を見た。レジ近くまで戻ると、表示板の光がやわらかくなっているのが分かる。あれほど重たく貼りついていた文字が、今はうっすらと薄く、輪郭を失いかけていた。 未練は消えるのではない。形を変えるのだ。 謝れなかった塊が、ひと言にほどける。言えなかったものが、遅れて届く。消し去るより、そのほうがずっと人間らしいのかもしれない。 櫂はふと、こんな夜を待っている店なのだと思った。何かを捨てる場所ではなく、抱えたままでも前へ出るための、ほんの短い寄り道。 男はスマートフォンを握り直し、深く息をついた。 「……帰ります」 「おう。足元、気をつけろ」 櫂がそう言うと、男は小さく頭を下げた。扉へ向かう背中はまだ頼りないのに、来たときよりはまっすぐだった。青白い灯りの下で、値札の残像だけが静かに揺れている。櫂はその薄れていく文字を見つめながら、胸の奥に落ちた温度を確かめるように、そっと息を吐いた。

4章 / 全10

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