四月の匂いが夜気に混じりはじめたころ、真帆は店の変化に気づいた。品揃えは変わらないのに、棚の奥行きが少しずつ薄くなっている気がした。雑誌の列は昨日より短く、冷蔵ケースの光も、前より遠くまで届かない。気のせいだと言い聞かせても、ドアをくぐるたび、この場所がゆっくり畳まれているように思えた。 その夜、真帆は缶のカフェオレを持ってレジに立った。表示は、終わりを知って急いた気持ち。胸の内を見透かされたことより、その言葉があまりにも今の自分で、真帆は苦笑するしかなかった。 「この店、なくなるんですか」 青年は缶を見つめたまま、 「温かいものも、冷める前に手を離れることがあります」 と言った。いつもの調子だったが、今日は比喩の布が薄い。真帆は引かなかった。 「あなたは、知ってるんでしょう。最後の夜が近いって」 青年は少しだけ目を伏せた。それが肯定だとわかった。 客はそのあとも来た。革靴を鳴らす営業職の男が、安いネクタイを買い、まだ言っていない退職と表示されて長く黙った。青年は包装された布を指先で整え、 「結び目は、自分でほどいたほうが次に使えます」 とだけ告げた。男は苦く笑いながらも、帰るころにはどこか晴れた顔をしていた。 大学生らしい青年は画用紙を一枚だけ持ってきて、出しそびれた応募作という表示に耳まで赤くした。青年は丸められた紙筒を差し出し、 「折らないで持ち帰るだけでも、今日は十分です」 と言った。その背中を見送りながら、真帆は胸の奥に刺さる違和感の名をようやく知った。ここへ来る人たちはみな、明日のほうへ押し出されるのに、店番の青年だけが今夜に留まり続けている。 客足が途切れた深夜三時過ぎ、真帆は棚から何も取らずにレジの前へ立った。 「あなたも、客だったんですよね」 「そうです」 「なら、あなたにも値札が出る」 青年は困ったように笑った。 「出ますよ」 「何て出るんですか」 問いかけるたび、彼はいつも水のようにかわしてきた。けれど今夜の店は静かすぎて、逃げ道まで薄く見えた。真帆は自分でも驚くほど強い声で言った。 「最後まで、誰かのためだけで終わるつもりですか」 笑みが、そこで初めて止まった。 青年はしばらく動かなかったが、やがてレジの内側から出てきた。客の立つ側へ回る、その何気ない動きだけで、店の空気が変わる。彼は棚からミネラルウォーターを一本取り、まるで初めて来た人のように両手で持った。 読み取り台に置かれた瞬間、画面が白く明るくなる。数字は出ない。ゆっくりと黒い文字が浮かんだ。 自分の人生を生きなかったこと 真帆は息をのんだ。どこかで予感していたのに、実際の言葉は思っていたよりずっと静かで、だからこそ深かった。青年は画面を見つめ、否定もしなければ笑いもしない。その横顔は、初めて客のものだった。 「誰かを見送っているうちに、朝を借りたままになってしまって」 彼は独り言のように言った。 レジの光が、二人のあいだで小さく震えていた。
未明の値札に、ほどける人生
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