櫂がレジ横の明かりを見ていると、店内にひとつだけ、違う気配が差し込んだ。雑誌棚の前に立った女は、仕事帰りのまま少しだけ肩を落としていて、腕に抱えた段ボールの薄さが、もうこの街を離れる準備をしていることを匂わせていた。 「すみません、ちょっと見せてもらってもいいですか」 「どうぞ。買う気があるなら、だけど」 「その言い方、店員さんとしてどうなんですか」 女は小さく笑った。手に取ったのは旅行雑誌だったが、すぐに視線がレジの表示板へ吸い寄せられる。そこに浮かんだ文字を見て、彼女の笑みが止まった。 渡せなかった手紙 櫂はその言葉を読み取り、あえて何も聞かなかった。誰に渡すのか、いつ書いたのか、今さらなのか。そんな問いは、先に置くと重くなる。 「……それ、見えてるんですね」 「見える。たぶん、あんたのほうがずっと気にしてる」 「雑誌を見に来たんですけどね」 「でも、今見てるのは別のほうだ」 女は唇を噛み、雑誌を棚に戻した。代わりに文房具の棚へ歩いていく。封筒、便せん、細いペン。そこに並ぶ品を前にして、手が止まる。 櫂は少し離れたまま、ばらついていた商品を静かに整え始めた。消しゴムを揃え、封筒の向きを直し、ペンを色ごとに並べる。ただそれだけのことなのに、棚の乱れが整うたび、女の呼吸もわずかにゆるむ。 「手伝ってるんですか」 「文房具は、まっすぐ並べたほうが気持ちいいだろ」 「そんな理由ですか」 「十分だ」 女はふっと息を漏らし、しゃがみこんで手前の封筒を一つ手に取った。指先で角をなぞる動きは、誰かの名前を書く前のためらいに似ている。 「書いたんです。前に。ちゃんと渡そうと思って」 「渡せなかった」 「はい。読み返すたび、変なことばかり気になって。重いかなとか、今さらかなとか。結局、引っ越しの日まで置いたままにして」 櫂は頷いた。 「置いたままでも、消えないだろ」 「ええ。でも、渡すには遅すぎる気がして」 「遅いかどうかは、渡す前から決めなくていい」 女は封筒を胸の前で握った。表示板の文字が、さっきより少しだけ薄く揺れる。 「……書き直したほうがいいでしょうか」 「直す必要があるなら、直せばいい。でも、まずは整理だ。気持ちまで雑誌みたいに積み上げると、どれが本命か分からなくなる」 「妙にうまいこと言いますね」 「今思いついた」 女は苦笑し、それから文房具を一つずつ手に取っては棚へ戻す櫂の手元を見ていた。整える動作が、考えを急かさない。封をすることも、投げ出すことも、まだ先でいい気がしてくる。 やがて彼女は封筒をカバンにしまった。 「少しだけ、持ち帰ります」 「それでいい」 「渡せるかは、まだ分かりませんけど」 「分からないままでも、整理はできる」 女はうなずき、雑誌棚の前で一度だけ振り返った。値札に浮かぶ文字は、消えたわけではない。それでも以前ほど鋭くはなく、まるで折り畳まれた紙の端みたいに静かになっている。 「ありがとうございました」 「礼を言うほどのことはしてない」 「そんなことないです」 女は小さく笑って、段ボールを抱え直した。櫂はレジの横でその背中を見送りながら、整えたばかりの棚に残る、わずかな温度を感じていた。
未明の値札に、ほどける人生
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