エラベノベル堂

未明の値札に、ほどける人生

全年齢

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6章 / 全10

レジの光は、淡い水面のように青年の横顔を揺らしていた。真帆はすぐに何か言うべきだと思ったのに、喉の奥で言葉が渋滞した。自分の人生を生きなかったこと。あまりにもまっすぐで、言い訳の余地がない値札だった。 青年はミネラルウォーターのボトルを見下ろしたまま、かすかに笑った。 「大げさでしょう」 「全然」 真帆は即座に返した。その声が思いのほか強く響き、店内の静けさがわずかに震える。青年は少しだけ目を上げた。 「あなた、誰かのためにここにいたんじゃないですか」 「そう思っていた時期もありました」 「時期?」 「最初は恩返しのつもりでした。この店で、自分の未練を見せられて、立ち止まれたから。だから次の誰かにも、その時間を渡せたらいいと」 青年はそこで言葉を切った。冷蔵ケースの低い音が、途切れた先を埋めるように続く。 「でも、いつからか、それを理由にしていたのかもしれません。ここに立っていれば、自分で何かを選ばなくて済んだので」 真帆は胸の奥を掴まれたような気がした。優しさがそのまま、逃げ場所にもなる。自分にも覚えがある。仕事を言い訳にした夜が、いくつあっただろう。 店の奥を見ると、棚の隙間は昨夜よりはっきり広がっていた。おにぎりの段は半分ほど空き、雑誌棚の一列まるごと消えている。まるで夜そのものが荷造りを始めているようだった。 「あと、どれくらいなんですか」 青年は壁の時計を見ないまま答えた。 「たぶん、今日を入れて二晩です」 真帆は息を止めた。想像していたより短い。けれど、驚きより先に、妙な納得があった。朝は急に来る。彼が言っていた通りだ。 そのとき、自動ドアが開き、風に押されるように一人の客が入ってきた。見覚えのある、ギターケースの男だった。彼は以前より晴れた顔でスポーツドリンクを買い、表示されたまだ怖い最初の音に苦笑した。青年は客の側に立ったまま、一瞬だけ迷い、それからいつものように言った。 「喉は、乾く前から少しずつ整えたほうがいいです」 男はうなずき、ケースの肩紐を握り直して出ていく。 その背中を見送る青年の目は穏やかだった。けれど真帆には、それがもう店番の目ではなく、役目を手放しかけている人の目に見えた。 客が去ったあと、真帆はレジ台に手を置いた。 「あなたは、誰かを助けたかったんじゃなくて、自分が止まっていても許される場所がほしかったんですね」 青年は否定しなかった。静かな沈黙が、そのまま答えになる。 「それでも、ここで救われた人はたくさんいます」 「それは本当です」 「だったら、もう十分です」 真帆は自分でも驚くほど落ち着いた声で言えた。未練を突きつけられ、何度もここに戻ってきた夜のぶんだけ、彼女の中にも小さな芯ができていた。 「誰かの朝を見送ったぶん、今度は自分の朝に行ってください」 青年の睫毛が、ゆっくり伏せられる。笑ってはぐらかす気配はなかった。 店の蛍光灯が一度だけ、かすかに明滅する。白い光の下で、値札の文字だけが消えずに残っていた。 自分の人生を生きなかったこと。 けれど真帆には、それがもう過去形になりかけているように見えた。

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