女が雑誌棚の前から離れたあとも、店内の静けさはすぐには戻らなかった。櫂はレジの横に立ったまま、表示板の淡い光を見つめる。さっきまで薄れていたはずの文字が、今度は別の場所で、じわりと輪郭を持ちはじめていた。 嫌な予感がして、彼は無意識にバックヤードの扉へ目を向けた。客用の通路とは違う、少し狭い裏手の空気。そこだけ、夜の冷たさが濃い。櫂はためらいなく扉を押し開けた。 蛍光灯の白い光の下、段ボールと空き箱が積まれた狭い空間は、いつも通りのはずだった。なのに、壁際に立てかけた自分の名札だけが、妙に強く光を返している。 「……なんだよ、これ」 近づいた瞬間、表示板の文字が反応した。未練。ではない。もっと直接的で、逃げ道のない言葉が浮かぶ。 帰れない理由。 櫂は息を止めた。 「俺の、か」 名札の名前に触れる。すると、文字はさらに濃くなり、まるで目を逸らすなと言われているみたいだった。胸の奥がざらつく。これまで見てきた客たちの文字とは違う。誰かの悩みを映すのではなく、彼自身を指している。 「偶然じゃない、ってことか……」 返事はない。だが、バックヤードの狭さがやけに息苦しい。櫂は棚に手をつき、視線を落とした。浮かぶ言葉の奥に、見覚えのある輪郭がうっすら混じる。誰かの笑い方。呼びかける声。途切れたままの記憶。 彼は歯を食いしばった。 「帰れない理由って、なんだ。ここが居心地いいからか。店が変だからか。違うだろ」 言い返すように、名札の光がかすかに揺れた。まるで、その先を言えと促すみたいに。 櫂は唇を引き結ぶ。思い当たるものがある。だが、それを言葉にしたくない。言ってしまえば、長く見ないふりをしてきた何かが崩れそうだった。 外の売り場から、かすかな足音がした。もう客はいないはずなのに、誰かがレジ付近を通る気配だけが残る。櫂は扉を振り返り、もう一度名札を見た。 帰れない理由。 その文字は、ただの表示ではなかった。彼がこの夜に立ち続けていることそのものを、静かに突きつけてくる。 櫂はようやく、息を吐いた。店の奥で止まっていた時間が、今、ほんの少しだけ軋んだ気がした。
未明の値札に、ほどける人生
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