青年はしばらく値札を見つめていた。レジの白い光が、その目の奥に沈んだものを静かに浮かび上がらせている。真帆は急かさなかった。この店で何度も教わったのだ。人が自分の言葉に辿り着くまでの沈黙は、たいてい必要な時間なのだと。 「朝に行く、ですか」 やがて青年が言った。その声はいつもより低く、けれど不思議なくらい軽かった。 「そんなこと、考えないようにしていました。ここにいれば、誰かの選ぶ瞬間だけを見ていられる。自分が何も選ばなくても、役に立っている気がしたので」 「気がした、じゃなくて、役に立ってましたよ」 真帆はまっすぐ返した。 「でも、それで終わりにしたら、あなたの未練までこの店の棚に置きっぱなしになる」 青年は目を伏せ、ほんの少し笑った。観念した人の、静かな笑みだった。彼は客の側に立ったまま、もう一度ミネラルウォーターを手に取る。画面の文字は変わらない。自分の人生を生きなかったこと。その一文を、今度は逃げずに受け取ろうとしているのがわかった。 「僕は、昔はパンを焼きたかったんです」 唐突な告白に、真帆は瞬いた。 「専門学校の願書も用意していました。でも家のことや、お金のことや、たぶん怖さもあって、出さなかった。代わりに無難な仕事をして、うまく笑って、そのうち何が好きだったのかも曖昧になりました」 棚の奥で、かすかに音がした。振り向くと、菓子の列が一段、影みたいに薄くなっている。閉店の時刻が、目に見えるかたちで近づいていた。 「まだ間に合いますかね」 青年は値札から目を離さずに言った。 「朝に?」 真帆は少しだけ笑う。 「パンは、朝に食べる人が多いでしょう」 その言葉に、青年は初めて声を立てて笑った。あまりにも自然な笑い方で、真帆は胸の奥がゆるむのを感じた。店番ではなく、ひとりの青年がそこにいた。 その後も数人の客が訪れた。青年はもうレジの内側へ戻らず、客の隣に立って言葉を渡した。最後の役目というより、最後にようやく同じ場所へ降りてきたようだった。夜は少しずつ薄くなり、棚の商品は朝霧みたいに減っていく。 客足が途切れたころ、店内にはほとんど何も残っていなかった。真帆は空いた棚を見回し、それから青年を見る。 「次に会うときは、ここじゃない場所がいいです」 青年はうなずいた。レジの画面に残っていた値札は、ふっと消え、代わりに見慣れた数字が表示された。ミネラルウォーター一本分の、ただの代金だった。 「客として払います」 青年が小銭を置く。硬貨の乾いた音が、閉店の合図みたいに響いた。 外の空は、群青から薄い青へ変わりはじめている。真帆が振り返ると、店の蛍光灯がゆっくりと落ちた。白い明かりは二度と点かず、ガラスの向こうの店内は朝の景色に溶けていく。 路地に立っていたはずの無人コンビニは、次の瞬間にはただの空きスペースになっていた。文具店とクリーニング店のあいだに、最初から何もなかったみたいに。 それでも真帆の手の中には、あの店のレシートの代わりみたいに、まだ温度の残る言葉があった。誰かの朝を見送ったぶん、今度は自分の朝に行ってください。 夜明けの風の中で、青年は初めて店ではなく街のほうを向いて立っていた。
未明の値札に、ほどける人生
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