エラベノベル堂

未明の値札に、ほどける人生

全年齢

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7章 / 全10

レジ前に戻った櫂は、まだバックヤードの冷えを肩に残したまま、表示板の光を見つめていた。帰れない理由。その言葉が背中に貼りついて離れない。客の未練なら、これまで何度も見てきた。けれど自分の名札に浮かぶそれは、店の明かりよりずっと生々しかった。 そのとき、入口の電子音が静かに鳴った。 櫂が顔を上げると、店内へ入ってきたのは、背を少し丸めた老人だった。杖をついているわけでもないのに足取りはゆっくりで、深夜の空気に溶けるみたいに慎重だった。 「まだ開いておるかね」 「開いてますよ。……こんな時間に珍しいですね」 老人はにやりともせず、レジの前で立ち止まった。細い目が、櫂の顔をじっと見る。 「珍しいのは、そっちじゃろう」 櫂は眉をひそめた。言い返そうとして、なぜか喉が詰まる。老人の声に、耳の奥がざわついたのだ。知らないはずなのに、幼いころに聞いたことがあるような、ひどく懐かしい響きだった。 「……どこかで会いましたか」 「さてな。おまえさんが忘れておるだけかもしれん」 老人は棚を見回し、まるで店の造りを知っているみたいに、迷いなく表示板を見上げた。そこに浮かぶ文字を目にした瞬間、彼の表情がわずかに変わる。 「ほう。まだ残っておったか」 「何がです」 「約束じゃよ」 櫂の胸が、ひとつ大きく鳴った。 「……約束」 老人はゆっくりとうなずく。レジの横に置かれたペン立てへ視線を落とし、それから櫂を見た。 「子どものころ、おまえさんはここで誰かを待っておった。店の前で、帰らずに立っておった。そのとき、ひとつ約束をしたはずじゃ」 櫂は口を開いたまま、何も言えない。頭の奥が白くなる。店の匂い、蛍光灯の音、誰かの手の温かさ。断片だけが、ガラス越しの景色みたいに滲んでくる。 「思い出せんか」 「……少し、だけ」 櫂は額を押さえた。胸の奥にしまい込んでいた何かが、鍵穴に指を差し込まれたみたいに揺れる。 「ここで、また会おうって……言った、気がする」 「そうじゃ。その先が大事なんじゃがな」 老人の声は低い。だが責める響きはなかった。ただ、長く閉じていた扉を、少しだけ押し開けるような穏やかさがあった。 櫂は目を閉じる。誰かの背中。遠ざかる改札の音。手を振りたくても振れなかった夕暮れ。喉の奥でつかえて、最後まで言えなかった一言。会おう、また。いや、違う。別れの言葉だ。言わなければならなかったのに、飲み込んだまま、時間だけが過ぎた。 「……あ」 息が震えた。 老人は静かに待つ。 櫂はレジの縁を掴み、ようやく知った。自分が長くこの店を離れられなかったのは、ここに何かがあるからじゃない。ここで、あの日の別れを言えなかったからだ。 「俺……あのとき」 言葉はそこで途切れた。けれど、途切れた先にあるものだけは、もう見え始めていた。

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