真帆はしばらく、その何もない隙間を見つめていた。文具店とクリーニング店のあいだには、朝の光にさらされたコンクリートがあるだけで、昨夜まで確かにあった白い灯りの気配さえ残っていない。夢を見たのかもしれないと疑うには、胸の内側に残ったものがあまりに具体的だった。 その日、真帆はほとんど眠らないまま会社へ向かった。ひどく疲れているはずなのに、足取りは不思議と重くない。エレベーターの鏡に映る自分の顔は冴えないままだったが、長いあいだ貼りついていた薄い膜が一枚剥がれたようでもあった。 昼休み、真帆はスマートフォンを開き、止めたままだった連絡先をいくつか見つめた。迷った末に、以前返事をもらった友人へ、今度こそ会わないかと送る。送信のあとに来た沈黙は相変わらず少し怖かったけれど、それでももう、怖いまま置いておくほうが嫌だった。 数日後の朝、駅へ向かう途中で、真帆は見慣れない木の看板に気づいた。路地から少し外れた角に、小さな店ができていた。ガラス越しに見えるのは、まだ新しい棚と、焼き色のついた丸いパン。店名は控えめで、飾り気がない。けれど扉の前に立った瞬間、胸の奥が静かに鳴った。 ドアを開けると、焼きたての匂いが朝の空気ごと包み込んだ。甘い香りと、香ばしい熱。それだけで、夜の店とはまるで違う場所だとわかるのに、奥のカウンターに立つ人を見た途端、真帆は足を止めた。 白いシャツに、今度は小麦粉のついたエプロン。青年はトングを持ったまま顔を上げ、ほんの一拍遅れて笑った。 「いらっしゃいませ」 あの夜と同じ言葉なのに、声はもっと近かった。遠いところのない、朝の声だった。 「本当に、朝にいたんですね」 真帆が言うと、青年は少し照れたように目を伏せる。 「修業中ですけど。知り合いの店を手伝わせてもらってます」 カウンターの奥には、焦げ目のきれいなクロワッサンや、素朴な丸パンが並んでいた。どれも形は少し不揃いで、だからこそ人の手の温度が見える。 「値札は、普通ですよね」 真帆が冗談めかして訊くと、青年は棚の札を見て笑う。 「ええ。ただの値段です」 「少し寂しいかも」 「その代わり、味はごまかせません」 真帆はくすりと笑い、いちばん端の丸パンを選んだ。会計はもちろん、数字だけだ。それが妙にうれしかった。もう未練を突きつけられなくても、自分で選んで、自分で払って、先へ進める場所に来たのだとわかるから。 店を出るころ、スマートフォンが震えた。友人からの返信だった。今度、ごはんでも行こう。短い一文に、真帆は息を漏らすように笑う。 振り返ると、ガラス越しに青年が次の客へ頭を下げていた。人の人生を少しだけ変える不思議な店はもうない。それでも、あの夜ほどけたものは、消えずに日常の中へ続いている。 焼きたてのパンの温かさを掌にのせたまま、真帆は朝の街を歩き出した。誰かの未練を映す光ではなく、自分の選んだ今日の光の中へ。
未明の値札に、ほどける人生
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