エラベノベル堂

未明の値札に、ほどける人生

全年齢

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8章 / 全10

櫂はレジ横から身を乗り出すようにして、店の外を見た。まだ深夜の闇は濃いのに、駐車場のアスファルトだけが小雨を受けて鈍く光っている。見慣れた白線の上に、点々と水滴が弾け、店の明かりを細かく砕いていた。 「外、出るのかよ……俺」 自分で言って、少し笑ってしまう。だが笑いは長く続かない。バックヤードで見た名札の光が、まだ胸の奥に刺さっていた。帰れない理由。老人の言葉。あの日の別れ。どれも、レジの機械音よりよほど生々しい。 櫂は扉を押し開けた。湿った夜気が頬に触れる。すると、店内の表示板が、背中越しにふっと暗くなった気がした。 「え?」 振り返ると、さっきまで文字の浮かんでいた値札が、売り場のあちこちで真っ白になっていた。未練も、言えなかった一言も、渡せなかった手紙も、まるで最初からそこに何もなかったみたいに消えている。 「……消えた?」 その声に、店内の空気がざわめきのように動いた。イートイン席のほうから、まだ帰り切っていなかった客がこちらを見た。女も、もう一度戻ってきていたのか、文房具棚の近くで立ち止まっている。誰もが、表示板を見上げていた。 櫂ははっとした。 値札が消えたのは、終わりじゃない。客たちが、自分の中の迷いを見つめ直せるところまで来たからだ。誰かに示される文字がなくても、足を止めたままではいられない。自分で選ぶしかない。 会社員の男が、ゆっくりと入口へ向かう。女も、封筒の入ったカバンを持ち直した。老人は何も言わず、ただ小さくうなずいている。 櫂は駐車場の片隅に立ったまま、濡れた靴先を見下ろした。店は迷っている人を導く場所だと思っていた。だが違う。導くんじゃない。棚に並ぶのは、進むための小さなきっかけだ。缶コーヒーも、スープも、封筒も、通話も。選ぶのは、いつだって客自身だった。 「そういうことかよ……」 雨は細いまま降り続ける。店内の灯りは変わらず青白く、けれどもう、以前みたいに櫂を縛る鎖には見えなかった。彼は雨に濡れた手を握りしめる。 そのとき、背後で電子音が鳴った。振り向くより先に、誰かが自分の足で前へ出ようとする気配だけが、静かにそこにあった。

8章 / 全10

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